竹に二羽飛雀
伊達氏は藤原山陰の子孫であり、常陸国真壁郡伊佐荘中村に本領を持つ常陸入道念西(朝宗)を始祖とする。

−始祖朝宗の入部−
文治5年(1189)、念西は源頼朝の奥州征伐に際し、息子の常陸冠者為宗・次郎為重・三郎資綱・四郎為家らと共に従軍し、奥州藤原氏の将である信夫荘司の佐藤元治らを破った功によって伊達郡を与えられた。念西は本領に嫡子為宗を留め、二男為重を伴い入部し伊達氏初代となった。
7世行朝は元弘4年(1334)、後醍醐天皇の子、義良親王と北畠顕家らによる陸奥国府の「式評定衆」に任じられ、8世宗遠は出羽国置賜郡長井荘の長井広房を破り、長井荘を手に入れた。さらに宗遠は長井荘の他、亘理・刈田・柴田・伊具・信夫など近隣の郡や荘を攻め、後に足利公方に属した際にそれらの領土は全て知行地として賜る事になった。

−大膳大夫政宗の活躍−
9世政宗の代になると室町幕府と手を組み関東管領足利氏と争う事となった。その結果新たに黒川・亘理の両氏が服属、さらに名取・宮城・深谷・松山・宇多の諸郡を支配する所となり、伊達氏の所領は広大なものとなった。
10世氏宗は関東管領と誼を通じたが、さらにその子である11世持宗は再び関東管領と争う事となった。持宗はその子12世成宗らと度々上洛し、足利将軍に馬・太刀・黄金などを献じ、その財力を誇示した.。しかし13世向宗の時代には嫡子稙宗と骨肉の争いを繰り広げ、以降伊達氏は父子で反目し合う事が多くなった。

−戦国時代の伊達氏−
14世稙宗は伊達氏念願の陸奥国守護に任じられ、居城を梁川城から桑折西山城に移した。対外的には近隣の諸豪族と政略結婚を進めて南奥羽での地歩を固める一方、北方では大崎義直の要請により、3000騎を率いて大崎地方に出陣し、氏家・古川氏らを討った。
天文11年(1542)、稙宗は三男である実元の上杉氏入嗣における問題から、嫡子晴宗との間で「天文の乱」が起き、同17年(1548)の稙宗隠居に至るまで奥羽の諸豪族を巻き込んでの争乱となった。

15世晴宗も父稙宗同様、諸豪族との政略結婚を進め、さらに稙宗の陸奥国守護と同格の奥州探題に任じられた。稙宗の陸奥守護に続く大任の任官は伊達氏の奥羽における勢力を確固たるものとした。また晴宗は居城を米沢城に移し、以後政宗の代まで続く事になる。
晴宗も伊達氏の例にもれず、嫡子輝宗との反目が生じたが対立が深刻になる前に隠居し、16世輝宗は蘆名氏と婚姻を結び友好を保つ一方、相馬氏と争った。

−独眼竜政宗の登場−
17世政宗は天正14年(1586)、二本松城を攻めて畠山氏を滅ぼした。
同16年(1588)には佐竹・相馬氏と争い、翌17年には蘆名氏を破って黒川城に入城し、版図は奥羽六十六郡の内半分を領した。

しかし天正19年(1591)、政宗は豊臣秀吉の奥州仕置により会津・置賜地方を没収され、葛西・大崎氏旧領の岩出山城に移るが、慶長6年(1601)、関ヶ原の合戦により刈田郡を加増され、居城を仙台城に移して62万5千石という大藩となった。

伊達氏系図