■ あ行
   あきやま さだつな
 秋山 定綱
?~元和元年(1615)
源蔵。伊賀守。初めは時綱とも。
越後国落水城主であったが、後に糸魚川城に移り490石の知行を受けた。
慶長3年(1598)、上杉景勝の会津転封に伴い、下条駿河守忠親と共に1,000石で二本松城の城代を勤めたが、慶長6年(1601)に景勝が米沢へ減封となると、これにも従って320石を給された。
所在地:山形県米沢市林泉寺1丁目2-3 林泉寺内
   あさり かつより
 浅利 勝頼
享禄2年(1529)~天正10年(1582)
浅利則頼の二男。民部大輔。義正とも。
浅利氏は出羽国の豪族で比内地方に勢力を張っていた。
則頼の嫡子である則祐と勝頼はかねてより仲が悪かったため、永禄5年(1562)に勝頼は比内地方を狙う檜山城主、安東愛季と結んだ。勝頼の手引きによって攻め込んだ愛季の軍勢により、則祐は長岡城で自害した。
その後、勝頼は浅利氏を継いで安東氏の被官として活躍したが、愛季は浅利氏の勢力拡大を恐れ始めた。そのため天正10年(1582)、勝頼は檜山城に招かれたところを松前慶広らによって殺害された。
所在地:秋田県能代市檜山字檜山町41 浄明寺内
   あしな もりうじ
 蘆名 盛氏
大永元年(1521)~天正8年(1580)
修理太夫。蘆名氏16代当主。
蘆名氏中興の祖といわれる。
近隣の結城氏・相馬氏・二階堂氏・二本松氏・田村氏らを従え、上杉氏・武田氏・北条氏・足利氏らと結んで佐竹氏と戦い、蘆名氏の全盛期を築いた。
永禄4年(1561)に嫡子である盛興に家督を譲ったが、天正3年(1575)に盛興が没したため、再び政務に就いた。
天正8年(1580)に死去、その後蘆名氏の勢力は衰退し、9年後の天正17年(1589)、蘆名氏は滅亡した。
所在地:福島県会津若松市門田町大字黒岩字花見ヶ丘76‐2
   あしな もりおき
 蘆名 盛興
天文16年(1547)~天正3年(1575)
蘆名氏17代当主。盛氏の嫡子。
蘆名氏中興の祖と呼ばれた盛氏に似て非凡な才を見せ、永禄4年(1561)に盛氏より家督を譲られた。
天正3年(1575)、跡継ぎに恵まれないまま父に先立って没したため、盛氏は二階堂氏より養子を向かえ、盛隆と改名し跡を継がせた。
所在地:福島県会津若松市門田町大字黒岩字花見ヶ丘76‐2
   あしな もりたか
 蘆名 盛隆
永禄4年(1561)~天正12年(1584)
左京亮 三浦介。蘆名氏18代当主。二階堂盛義の子。
天正3年(1575)に蘆名氏17代盛興が早世したため、盛氏の養子になり、盛興の後室と結婚して蘆名氏を継いだ。
天正9年(1581)、重臣の金上盛備を上洛させ、織田信長に三浦氏の後継と認められ、三浦介に任じられている。
天正12年(1584)、黒川城にて家臣である大庭三左衛門に殺害された。
所在地:福島県会津若松市門田町大字黒岩字花見ヶ丘76‐2
   あまかす かげつぐ
 甘糟 景継
? ~慶長16年(1611)
備後守。上杉謙信・景勝の2代に仕えた重臣。
登坂加賀守清高の嫡子であるが、後に謙信の命により甘糟氏を継いだ。
景勝の代になると、越後国護摩堂城・五泉城・出羽国東禅寺城、そして白石城などの城代を務め、神指城の普請の際には直江兼続の下で小奉行を務めた。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際には景継の留守中に白石城を伊達政宗に奪われ、景勝の不興を買ったという。
所在地:山形県米沢市林泉寺1丁目2-3 林泉寺内
   いいさかのつぼね
 飯坂の局
永禄12年(1569)~寛永11年(1634)
伊達政宗の側室。飯坂右近宗康の娘。吉岡の局。猫御前とも。
飯坂城主・飯坂右近宗康の二女として生まれ、伊達政宗の側室となった。慶長9年(1604)、政宗の三男である権八郎が実母を亡くすと、これを養子として引取り、宗清と名乗らせて実家の飯坂氏を継がせた。
その後、慶長18年(1613)に宗清が陸奥国黒川郡吉岡に移封されると、飯坂の局もこれに従い、吉岡の局と称された。
寛永11年(1634)に宗清が死去すると、間もなくこれを追うように亡くなった。

史料によっては新造の方と混同されることが多い。
所在地:宮城県黒川郡大和町吉岡字天皇寺184-20 天皇寺内
   いしだ みつなり
 石田 三成
永禄3年(1560)~慶長5年(1600)


一番左側の墓石が伝・石田三成といわれている
治部少輔。豊臣政権における五奉行の一人。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において西軍を率いた三成は東軍の徳川家康に敗れ、六条河原にて斬首された。その遺骸は京都大徳寺の三玄院に葬られ、明治時代には発掘調査が行われている。

しかし、出羽国久保田城下にある帰命寺の開山・木食唱岳長音上人は石田三成であるという伝承が残り、現在も帰命寺には石田三成のものとされる墓石が残っている。しかし、帰命寺の開山は寛文10年(1670)であり、時代が食い違っている。このため、長音上人は三成の妾腹の子、もしくは弟、または弟の子などとも言われている。

所在地:秋田県秋田市八橋本町2丁目3-37 帰命寺内
   いしもだ むねより
 石母田 宗頼
? ~?
旧名を浦山清三郎景綱。越前国の出身。
伊達氏の重臣であった石母田景頼に仕えていたが、景頼に後嗣がいなかったため婿養子となり、石母田宗頼と名乗った。
元和2年(1616)には陸奥国胆沢郡水沢城主に任じられ、後に栗原郡鶴丸城へ5,400石を持って移された。その後、加美郡宮崎を経て、宝暦7年(1757)、興頼の代に高清水城へ移り、明治維新まで続いた。

現在、嫡子である定頼と共に鶴丸城の西方約1kmの高台の地に墓所が存在する。
所在地:宮城県栗原市栗駒岩ヶ崎桐木沢
   いとう しげたか
 伊東 重孝
寛永10年(1633)~寛文8年(1668)
七十郎。伊達政宗の家臣・伊東重信の孫。
伊達騒動においての烈臣として伝わる。
万治3年(1660)、仙台藩3代藩主・伊達綱宗が隠居するに至り、その跡をわずか2歳の嫡子・亀千代丸(後の綱村)が継いだ。これにより、藩内の実権は亀千代丸の後見人である伊達兵部大輔宗勝が握る事となった。
寛文8年(1668)、かねてより宗勝の専横に憤った重孝は宗勝の暗殺を企てたが事前に暴露し、捕縛されて米ヶ袋刑場にて処刑された。その際、「人は斬首される際に前のめりになるが、自分は後ろに倒れるであろう。さすれば兵部は3年のうちに亡き者になるであろう」と言い残し、その通り後ろに倒れたという。
寛文11年(1671)、宗勝一派が失脚するに及んで重孝の忠義が讃えられ、藩主・綱村の命により伊東氏の再興が認められた。
明治35年(1902)、愛宕山登口の改修工事中に重孝の遺骸が発見され、一族の菩提寺である栽松院に葬られた。
所在地:宮城県仙台市若林区連坊1丁目3-18 栽松院内
   いわせみだい
 岩瀬御台
天正13年(1585)?~寛永16年(1639)
佐竹義宣側室。葦名盛隆の二女。後に二階堂盛義の養女。
天正17年(1589)、須賀川城の二階堂氏が伊達政宗の攻撃により滅亡すると岩城氏に身を寄せたが、後に佐竹氏を頼った。
慶長7年(1602)、佐竹義宣が秋田へ転封になった際にこれに従った。
やがて正室を失っていた義宣の寵愛を受けて正室となったが、後に不縁となり横手城代の須田美濃守盛秀に預けられた。
寛永16年(1639)、横手の地で没した。
戒名「昌寿院殿光円正瑞大姉」。
没後も須賀川衆によって菩提が弔われ、平成3年(1991)に須田氏の子孫によって総檜造の鞘堂が建立された。
所在地:秋田県横手市二葉町3-5 天仙寺内
   いわだて むねのり
 岩館 宗矩
天正7年(1579)?~寛永9年(1632)
右京。南部藩初代藩主利直の家臣。
糠部郡岩館村82石の知行であったが、三戸城の南側の沼尻惣門に屋敷を与えられ、慶長13年(1608)に200石に加増された。
寛永9年(1632)、利直の死去に伴い殉死した。
戒名「覚岩宗正居士」。
所在地:青森県三戸郡南部町大字小向字正寿寺62-1 三光寺内
   うえすぎ かげかつ
 上杉 景勝
弘治元年(1556)~元和9年(1623)
中納言。長尾政景の子で上杉謙信の養子となった。
元和9年(1624)の上杉景勝逝去の際、米沢に廟所を設けられ、以来12代斉定公までの歴代藩主が葬られた。
各祠堂は2代から8代までは入母屋造で欅や杉が使われ、9代から12代までは宝形造で杉や檜が使われている。時代を追うごとに簡素な造りになり、藩の財政状況悪化の様子が伺われる。
昭和59年(1984)、「米沢藩主上杉家御廟所」として国指定施設に認定された。
所在地:山形県米沢市御廟1丁目5
   うえすぎ けんしん
 上杉 謙信
享禄3年(1530)~天正6年(1578)
関東管領 弾正小弼。
上杉謙信は天正6年(1578)、越後国春日山城にて没した。遺骸は武人として甲冑を身に付け甕棺に納めて城内不識庵に葬られた。
跡を継いだ景勝が慶長3年(1598)に会津へ、さらに慶長6年(1601)に米沢に転封となった際には遺骸も会津から米沢へ移され、米沢城本丸の南東隅に祠を建てて祀られた。
明治5年(1872)、米沢城内に謙信公と鷹山公を合祀する上杉神社が設けられると、遺骸は歴代御廟所に移された。
所在地:山形県米沢市御廟1丁目5
   うえすぎ のりまさ
 上杉 憲政
大永3年(1523)~天正7年(1579)
山内上杉憲房の嫡子。関東管領。
大永5年(1525)、父・憲房が死去した際、まだ3歳であったために、父の養子であった上杉憲寛が跡を継いだ。享禄4年(1531)には憲寛を追放して当主となり、関東管領となった。
天文21年(1552)、北条氏康に敗れて越後国の長尾景虎を頼った。景虎は憲政を厚遇し、御館を築いて招き入れている。
永禄4年(1561)、鎌倉鶴岡八幡宮において山内上杉氏の家督と系図・家宝を景虎に譲り渡し、これにより景虎は憲政の偏諱を受け上杉政虎と名乗り、同時に関東管領も継いだ。しかし天正6年(1578)に謙信(政虎)が死去すると、謙信の養子である景勝と景虎の間で家督争いが勃発、憲政は景虎方に付き、景虎は御館に立籠ったもの劣勢に陥った。
天正7年(1579)、憲政は景虎の嫡子・道満丸を連れて和睦交渉のために春日山城を訪れようとしたが、途中で景勝の手勢に討取られた。
戒名「慶雲院殿泰公宋大居士」。
所在地:山形県米沢市城南5丁目1-16 照陽寺内
   うちで みちみつ
 内出 道満
?~天正16年(1588)
大崎氏家臣の下新井田城主・葛岡監物の配下。中新田合戦の際は下新田城に籠る。
天正16年(1588)2月の中新田合戦の際、敵側である伊達勢の一部は寒さに耐えかね、宇岐須神社に放火した。
この行為に激怒した道満は劣勢の中敵陣に突入し、壮絶な討死を遂げたという。
所在地:宮城県加美郡加美町下新田字寺浦38 大祥寺内
   うめづ のりただ
 梅津 憲忠
元亀3年(1572)~寛永7年(1630)
梅津道金の二男で政景の兄。半右衛門。
梅津氏は宇都宮氏に仕えていたが、憲忠の父・道金の代に浪人となり常陸国太田に移住した。その後、道金の長男・水野春阿弥が佐竹義宣に仕えたが25歳で没したため、義宣の命により梅津氏を継いだ。後に弟の政景や渋江政光らと共に義宣の側近として活躍した。
また、慶長19年(1614)の大坂の陣においても奮戦し、「佐竹の鬼将軍」と呼ばれ将軍・秀忠より伝国の刀を賜っている。
元和元年(1615)からは佐竹氏の家老職を勤め、寛永7年(1630)に没した。戒名「萬雄英徹居士」。遺体は萬雄寺に葬られたが、明治25年(1892)に寺が移転した際に梅津氏歴代の墓所は取り残された。
現在は子孫の手によって宗入寺の一角に梅津氏歴代の墓石が集められ、墓誌と共に祀られている。
所在地:秋田県秋田市桜3丁目13-20 宗入寺
   えぐち あききよ
 江口 光清
?~慶長5年(1600)
五兵衛 道連。最上氏家臣。畑谷城主。
慶長5年(1600)、直江兼続率いる上杉勢が最上領に侵攻した。その際、畑谷城を守備していた光清は主君最上義光の撤退命令を聞き入れず、僅か300余名の手勢で上杉勢2万に対抗した。江口勢の必死の防戦も空しく、畑谷城は落城し、子息である子吉、甥の松田忠作らが討死、光清も自刃して果てた。ちなみに光清の年齢は『日本城郭全集』では享年56歳とされている。
平成11年(1999)に子孫の方々により五輪塔が新しく建立された。五輪塔の向かって右側には旧墓石、左側には納骨塔が位置している。
所在地:山形県東村山郡山辺町大字畑谷38 長松寺内
   えんどう もとのぶ
 遠藤 基信
天文元年(1532)~天正13年(1585)
山城守。不入斎。伊達輝宗の家臣。
陸奥国八丁目城下、西光寺の住職の子として生まれる。
若い頃に諸国を巡り、後に伊達氏に仕えた。当初は中野宗時の家臣であったが、宗時が謀叛を企てている事を伊達輝宗に報告し、その功を称された。
宗時が伊達氏より追放されると、その卓越した行政・外交手腕を買われ、当主である輝宗に重用された。
天正13年(1585)、輝宗が畠山義継に拉致され殺害されると、その後を追って殉死した。
所在地:山形県東置賜郡高畠町大字夏茂
   おうめ
 阿梅
慶長8年(1604)?~天和元年(1681)
真田信繁の娘。片倉重長の妻。
父・信繁が紀伊国九度山に配流されていた時に生まれる。慶長20年(1615)の大坂夏の陣において父と兄・大助を亡くすが、阿梅は弟・大八と共に家臣らに守られて落延びた。その際、片倉重長に保護され、後に重長の継室として迎えられた。
天和元年(1681)に78歳で没。
戒名「泰陽院殿松源寿清大姉」。

墓石は如意輪観音像を象っており、その形が歯痛のために頬をおさえているように見える事から、この墓石を削って飲むと虫歯に良く効くという迷信が生まれたという。
所在地:宮城県白石市字本町62 当信寺内
   おおい ちかきよ
 大井 友挙
?~?
仁賀保氏祖。伯耆守。大井四郎友光の子。
大井氏は清和源氏の流れを組む小笠原氏の一族であり、信濃国大井荘を支配していた。鎌倉時代に大井氏は出羽国由利郡の地頭職を賜り、代官を派遣して支配させていた。
応永年間(1394~1427)、友挙は信濃国より仁賀保の地に入部し、由利郡の抑えに就いたという。
仁賀保氏を称するのは友挙の子である大和守挙政の代からである。
所在地:秋田県にかほ市院内城前75 禅林寺内
   おおい みつもと
 大井 光基
慶長2年(1597)~寛永6年(1629)
幼名は小吉 平右衛門とも。赤尾津城主・赤尾津光景の子。
慶長5年(1600)、赤尾津氏は関ヶ原合戦の際において所領没収となり、赤尾津城を追われた。その後、一族は土崎に入り、大井氏を名乗った。
後に光基は佐竹藩家老である梅津憲忠に仕えた。

寛永6年(1629)、病により死去。遺体は主君・梅津氏の菩提寺である萬雄寺に葬られたが、明治25年(1892)に寺が移転した際に大井氏の墓所は取り残された。
現在は梅津氏の墓所近くに大井一族の墓石が集められている。
所在地:秋田県秋田市桜3丁目13-20 宗入寺内
   おおうら みつのぶ
 大浦 光信
寛正元年(1460)~大永6年(1526)
光信は南部氏の庶流・久慈氏の一族であったといわれる。
延徳3年(1491)、久慈から種里の地に入部し、種里城を築いて安東氏に対抗した。文亀2年(1502)には大浦城を築いて長子・盛信を城主とし、自らは引続き種里城に拠った。
大永6年(1526)、種里城において没する。67歳であった。
遺骸は遺言によって甲冑姿で巽(東南)の方向を向いて立ったままの姿で埋葬された。その霊力により、御廟所周辺には雑草が生えず、疫病が流行った際にここで祈祷すると直ちに収束したという。
後に子孫の為信は南部氏から独立し、津軽地方を統一して津軽氏を名乗ったため、光信は津軽氏の始祖ともされている。
所在地:青森県西津軽郡鰺ヶ沢町大字種里町大柳91
   おおくに さねより
 大国 実頼
永禄5年(1562)~元和8年(1622)
樋口与七。但馬守。
坂戸城主・長尾政景の家臣である樋口兼豊の二男。
天正6年(1578)に上杉謙信が死去し、謙信の養子である景勝と景虎の2人が家督を争った御館の乱においては、兄・直江兼続に従って景勝方として活躍した。
天正10年(1582)、景勝の命により、天神山城主・小国重頼の養子となって小国氏を継ぐが、後に姓を「大国」と改めた。
慶長3年(1598)、上杉氏の会津転封に従い、南山城城代として2万1,000石を与えられ、後に上杉氏が米沢へ減封されると、高畑城城代として7,000石を与えられた。
慶長9年(1604)、兼続と本多政重の養子縁組に反対し高野山に出奔した。その後、兼続の死後に密かに米沢へ戻り、元和8年(1622)に死去した。
所在地:山形県米沢市中央5丁目2-24 関興庵内
   おおさき よしのぶ
 大崎 義宣
大永6年(1526)~天文19年(1550)

 
 右:大崎義宣の供養碑
 左:梅香姫の墓
小僧丸。伊達稙宗の次男。大崎高兼の養嗣子。
天文5年(1536)、大崎氏の家臣らが謀反を起こし、大崎11代義直は伊達氏の力を借りてこれを鎮圧した。これにより、稙宗は次男である小僧丸を大崎氏の養嗣子として送り込み、小僧丸は義直の兄・高兼の娘を娶って義宣と名乗った。
しかし天文11年(1542)に「天文の乱」が発生し、父・稙宗と兄・晴宗の間で争いが起こった。結果的に稙宗は隠居する事になり、後ろ盾を失った義宣は義直と険悪な関係に陥った。
天文17年(1548)に妻の梅香姫が死去すると、いよいよ孤立した義宣は身の危険を察し、天文19年(1550)に葛西晴胤の下へ逃亡を図ったが、義直の手により暗殺された。
このような経緯により、義宣は大崎氏の当主に含まない史料もある。
戒名「玉龍院殿輝山道宣大居士」。
所在地:宮城県大崎市古川小野字西舘17 梅香院内
   おににわ よしなお
 鬼庭 良直
永正10年(1513)~天正13年(1586)
左月斎入道。
鬼庭氏は伊達氏初代朝宗の頃より仕えている世臣である。良直は武勇に優れ、伊達氏15世晴宗に仕えて2,000石を拝領し一族に列せられた。
天正13年(1586)の人取橋合戦の際には政宗より指揮を命じられ、金色采配を賜った。良直は73歳の老齢故に甲冑を着けるに耐えず、黄色の綿帽子を付け奮戦したが、岩城氏家臣である窪田十郎によって討取られた。
後に人取橋合戦古戦場の地に戦死者を埋葬し、功士壇と呼ばれている。
文政11年(1828)、茂庭氏に改称した子孫によって墓が建てられた。
所在地:福島県本宮市大字青田字茂庭
   おのでら しげみち
 小野寺 茂道
?~?
肥前守。
小野寺輝道の長子だが庶子であったといわれ、西馬音内城主となった。小野寺氏の当主を継いだ義道は弟にあたる。
由利十二頭の一人で剛勇を謳われた大井五郎満安は茂道の女婿であり、満安が同じ由利十二頭の仁賀保兵庫に敗れた際には、西馬音内城に匿っている。しかし、この事が義道にあらぬ疑いを受け、文禄2年(1593)に義道の攻撃を受けた。茂道はこれを迎え討とうとしたが、舅の苦衷を察した満安は身の潔白を証明すべく西馬音内城にて自刃して果てた。
その後、茂道は義道に従う事無く、小野寺領が最上勢に攻められた際には西馬音内城に火を付けて降り、隠棲した。
茂道の子孫は小野寺氏改易後、新庄藩や久保田藩に仕えた。
西蔵寺に西馬音内城主小野寺氏の墓所が建立されている。
所在地:秋田県雄勝郡羽後町西馬音内内堀回字寺脇4 西蔵寺内
   おのでら てるみち
 小野寺 輝道
天文3年(1534)~慶長2年(1597)
四郎丸 遠江守。景道と同一人物か。小野寺氏12代稙道の四子。
幼少の折、父・稙道が横手佐渡守(大和田光盛)と金沢金乗坊らに討たれ、輝道自身は庄内に逃れた。後に大宝寺氏の力を借りて父の仇を討ち、自領を回復したといわれる。
その後、安東氏や最上氏と戦対峙し、さらに勢力を拡大した。
後に上洛して織田信長に会見し、その後は二子の義道に家督を譲り、自身は吉田城に隠棲した。
享保3年(1718)、隣接する西法寺に横手城主小野寺氏の供養塔が建立された。
所在地:秋田県横手市平鹿町上吉田字吉田51 西法寺内
   おのでら みちひろ
 小野寺 道広
?~?
弥太郎。稲庭城主。
長禄元年(1457)、稲庭小野寺氏の菩提寺として広沢寺を開基した。
「長禄3年(1459)、広沢寺本堂の裏に道広の墓石が苔生して各字が破蝕しているが現存している」という記録が残る。
所在地:秋田県湯沢市稲庭町字小沢112 広沢寺内
   おのでら みつみち
 小野寺 光道
?~天正18年(1590)
左京進。友光とも。小野寺輝道の子、また義道の子ともいわれる。
天正年間(1573~91)に浅舞城を築いて居城とした。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による仙北地方の検地の際に浅舞城下で一揆が起こり、敗れて自害したとされる。

所在地:秋田県横手市平鹿町浅舞字浅舞286 龍泉寺内
   おのでら やすみち
 小野寺 泰道
応永10年(1403)~文明9年(1477)
小野寺氏継の子。孫次郎。
長禄2年(1458)、泰道は秋田城介泰頼や南部三郎らに敗北し、南部氏の勢力下に置かれた。しかしその後、寛正6年(1465)~応仁2年(1469)の間に南部氏と戦って所領を取り戻している。
戒名「幽山道源大禅定門」。横手の正平寺に葬られた。

所在地:秋田県横手市田中町3-14 正平寺内
   おばら ただひで
 小原 忠秀
?~慶長6年(1601)
藤五郎。和賀氏家臣。小原玄蕃峯行と同一人物か。
娘は和賀忠親の妻である。
慶長5年(1600)、和賀忠親が旧臣を率いて一揆を蜂起し、南部領を攻撃した際、これに従っている。
和賀氏家臣団きっての知恵者であったとされ、一揆勢が敗北して最後の拠点である岩崎城が落城した後、忠親が伊達政宗の下へ逃れる事に危険を感じ、これを諌めたという。
忠親が国分寺にて自害(殺害されたともいう)した際、他の家臣6人らと共に殉死(殺害)したとされる。主従8人は国分尼寺に葬られ、享保5年(1720)、忠親の曾孫である直義の手によって墓石が建立された。現在の墓石は後年に建て直されたもので、忠親の五輪塔は昭和12年(1937)に、主従の五輪塔が昭和59年(1984)に建立されたものである。
所在地:宮城県仙台市若林区白萩町33-26
 ■ か行
   かきざき のりいえ
 柿崎 憲家
天正4年(1576)~寛永10年(1633)

能登守。千熊丸。弥次郎。柿崎晴家の嫡子。
天正6年(1578)に上杉謙信が死去し、養子である景勝と景虎の2人が家督を争う御館の乱が勃発した。晴家は景虎方に付いたが、柿崎家中では2派に分かれ、景勝支持派が景虎支持派を一掃し、晴家も討取られた。その後、千熊丸が柿崎氏の家督を継ぎ、天正12年(1584)に元服して憲家と名乗った。
慶長2年(1597)、憲家に不手際があったとされ、須田満胤・本庄顕長らと共に追放されたが、寛永元年(1624)に米沢藩2代藩主・上杉定勝によって赦され、300石を与えられ柿崎家を再興させた。
寛永10年(1633)死去。戒名「登養院殿英誉光源居士」。
憲家の二男・祖道が開山させた西蓮寺に葬られる。
所在地:山形県米沢市中央5丁目4-7 西蓮寺内
   かさい きよもと
 葛西 清基
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鎌倉時代の武士。八郎、城八郎とも。
妻は陸奥国和賀郡を支配した和賀氏の初代・和賀義行の娘(岡田女子)である。
その墓所は「葛西壇」と称されていたが、後に伊達氏家臣・鈴木将監重信の墓所となった。
所在地:岩手県北上市相去町葛西檀
   かしやま あきすけ
 柏山 明助
天正6年(1578)~寛永元年(1624)
伊勢守。大林城主。柏山氏15代。
柏山氏は葛西氏の重臣として強大な勢力を有していた。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原合戦に参陣しなかったため、主家である葛西氏が滅亡すると、南部氏に1,000石で仕えた。
慶長5年(1600)、和賀忠親の反乱において功を挙げ、岩崎城代に任じられた。寛永元年(1624)に死去。その死の原因は、明助の実力を恐れた主君・南部利直によって暗殺された事とされる。
岩崎城の西側、柏山氏の菩提寺である大白山正雲寺に葬られたが、明治時代に正雲寺が岐阜県に移転したため廃寺となった。
所在地:岩手県北上市和賀町岩崎
   かしやま あきひろ
 柏山 明広
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大林城主。
葛西氏に仕え、当初は千葉明広を名乗っていたが、胆沢郡の代官に任じられた際に百岡城に入城し、柏山氏と改姓して城も柏山城と改めたとされる。
墓所は大林城柏山館の一角に柏山壇として祀られ、月星紋を刻んだ石碑が建っている。
所在地:岩手県胆沢郡金ケ崎町永沢字柏山館
   かたくら かげつな
 片倉 景綱
弘治3年(1557)~元和元年(1615)


小十郎 備中守。片倉景長の次子。
若くして伊達輝宗の徒小姓となり、天正3年(1575)に伊達政宗の近侍に任じられた。後に政宗の重臣として伊達氏の主要な合戦に参加して活躍している。
天正14年(1586)、安達郡二本松城の城代や信夫郡大森城の城主を歴任し、天正19年(1591)に亘理郡亘理城主となった。慶長7年(1602)、景綱は白石城の城主となり、後に幕府の一国一城令においても特例として存続が認められた。
慶長19年(1614)の大坂の陣においては病に臥していたため参陣できず、代わりに嫡子・重長を従わせている。
元和元年(1615)、59歳で死去。戒名「傑山常英」。その死において家臣6名が殉死している。

当初、遺骸は傑山寺に葬られ、墓標の代りに一本杉が植えられた。後の延宝8年(1680)、片倉氏3代景長は愛宕山から白石城を真東に望む場所を片倉氏歴代の墓所に選定し、仙台から石工を呼寄せて阿弥陀如来座像を彫らせて墓標の代わりとした。





【画像上】白石市傑山寺の景綱墓所にそびえ立つ一本杉
【画像下】愛宕山の片倉氏歴代墓所
所在地:宮城県白石市南町2丁目7-20 傑山寺
所在地:宮城県白石市福岡蔵本字愛
   かたくら きた
 片倉 喜多
天文8年(1539)~慶長15年(1610)
喜多子 政岡(正岡) 少納言。鬼庭義直の娘。
喜多の母は当初、鬼庭義直に嫁いで喜多を生んだが、男子が生まれなかったために義直と離別し、片倉景長と再婚した。この景長との間に生まれたのが小十郎景綱であり、喜多の異父弟に当たる。
後に喜多は伊達輝宗の命により、輝宗の嫡子・政宗の養育係を命じられ、政宗の人格形成に大きな影響を与えたとされる。
しかし、後に政宗の怒りを受け蟄居、弟・景綱の所領である白石に隠棲した。
生涯独身であったといわれる。
所在地:宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山
   かたくら しげなが
 片倉 重長
天正13年(1585)~万治2年(1659)
小十郎 左衛門。白石城主・片倉景綱の嫡子。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦における伊達氏の白石城攻略に父・景綱と共に参陣して初陣を飾った。慶長19年(1614)、大坂冬の陣においては病中の父に代わって伊達政宗に従い、後藤又兵衛基次を討取るなどの功績を挙げた。この際の奮戦振りをして「鬼の小十郎」と称された。
また、大坂夏の陣においては敵将・真田信繁の子女を保護しており、後にその中の一人である阿梅(おうめ)を後室として迎えている。
所在地:宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山
   かとう きよまさ
 加藤 清正
永禄5年(1562)~慶長16年(1611)
幼名虎之助。豊臣秀吉子飼いの猛将であり、賤ヶ岳七本槍に数えられた。
清正の死後、二男忠廣が跡を継いだが、寛永9年(1632)に幕府より突如改易され、酒井忠勝に預かりの身となる。そして丸岡に1万石を与えられ、余生を過ごした。
忠廣は改易の折、幕府に内密で清正の遺骨を熊本より持出し、丸岡に「清正閣」を建てその菩提を弔った。
昭和24年(1949)、発掘調査が行われ、五輪塔の下より肥前弓野焼の遺骨壷と人骨が発見された。その結果、壷の年代と経緯を鑑みて清正の墓碑と判断された。
昭和38年(1963)、山形県指定史跡に指定され、後に遺骨壷と共に覆堂に納められた。
所在地:山形県鶴岡市丸岡町の内36 天澤寺内
   かねこ あんぺいたろう
 金子 安部太郎
?~慶長5年(1600)
矢島五郎満安の家臣。
天正16年(1588)、主君である満安が西馬音内城で自害すると、その遺子・鶴姫を擁して矢島氏の復興を目論んだ。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の折に安部太郎ら矢島氏の残党は赤館に立籠もり、仁賀保挙誠(勝俊)の攻撃を受けた。攻め手は5,000余の軍勢に対し、籠城側は僅か40名前後であり多勢に無勢であった。味方の鈴木与五郎・相場又四郎らが次々討死する中、安部太郎は鑓を持って単身で大軍の中に飛込み、5・6人に手傷を負わせて討死したという。
戒名「帰空顕功院安室了心居士」
所在地:秋田県由利本荘市鳥海町上笹子中村
   かまた はるみち
 蒲田 治道
?~慶長6年(1601)
宗現。
慶長5年(1600)、和賀忠親が旧臣を率いて一揆を蜂起し、南部領を攻撃した際、これに従っているが、元より和賀氏の家臣ではなく、伊達勢から派遣された者であったといわれる。
忠親が国分寺にて自害(殺害されたともいう)した際、他の家臣6人らと共に殉死(殺害)したとされる。主従8人は国分尼寺に葬られ、享保5年(1720)、忠親の曾孫である直義の手によって墓石が建立された。現在の墓石は後年に建て直されたもので、忠親の五輪塔は昭和12年(1937)に、主従の五輪塔が昭和59年(1984)に建立されたものである。
所在地:宮城県仙台市若林区白萩町33-26
   がもう うじさと
 蒲生 氏郷
弘治2年(1556)~文禄4年(1595)
飛騨守、左近衛少将。近江国日野城主蒲生賢秀の子。
織田信長に仕え、その婿となった。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、天正18年(1590)、会津黒川城で42万石を与えられ、翌年には加増を受けて92万石を領した。
文武に優れ、利休七哲の随一に数えられ、キリスト教にも帰依した文化人であった。
文禄4年(1595)、京にて没した。
所在地:福島県会津若松市栄町2-12 興徳寺内
   きくち ぎょうぶ
 菊池 刑部
?~?
実名不詳。津軽為信の家臣。
伝承によると、南朝の臣・菊池武光の子孫が長慶天皇に従って陸奥国に下向し、丸山城を築いて居館としたとされる。この丸山城は菊池館とも呼ばれた。
戦国時代において菊池刑部は大浦為信の津軽統一に協力し、慶長9年(1604)に大間越の藩境が確定すると、寺田讃岐・小山内長助・山上衛門佐らと共に岩崎関所番役に任ぜられた。慶長18年(1613)頃、大間越奉行の笹森勘解由によって茶右衛門館の小野茶右衛門が討たれた後も、菊池氏は100石の知行をもって津軽藩に任え、岩崎方面を支配した。
この墓碑は、11代の子孫・菊池新太郎が深浦町奉行として赴任した際に、先祖を顕彰して建てたものであるという。
所在地:青森県西津軽郡深浦町大字岩崎字玉坂90-1 竜王寺内
   きた のぶちか
 北 信愛
大永3年(1523)~慶長18年(1613)
松斎。北致愛の嫡子。南部氏の一門である北氏に生まれる。
南部氏24代晴政が養嗣子である田子信直と対立した際には、信直を自らの居城・剣吉城に匿っている。また、晴政の死去後に家督問題が発生した際にはこれを補佐し、九戸政実の弟・実親を退け信直に跡を継がせることに成功するなど、信直の重臣として智謀をもって活躍した。
天正15年(1587)には信直の名代として加賀国の前田利家に鷹を献上するなどして豊臣氏への臣従を明らかにした。また、後に九戸政実の乱においても上洛して豊臣秀吉に援軍を求めるなど外交面において活躍した。
慶長3年(1598)、花巻城代であった三男・秀愛が死去したことにより花巻城代になり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦における和賀一揆では一揆勢に城を包囲されたがこれを撃退している。
慶長18年(1613)死去。文化9年(1812)の二百回忌に院殿号・大字号が許された。戒名「萬献院殿説叟忠公大居士」。
所在地:岩手県花巻市愛宕町1-25 雄山寺内
   きたばたけ もりちか
 北畠 守親
?~?
陸奥国司。北畠顕家の弟である北畠顕信の二男。
川原御所の北畠氏の始祖とされる。
所在地:青森県青森市浪岡大字中野村元153-4
   くすのき まさいえ
 楠木 正家
?~貞和4年(正平3・1348)
南北朝の武将。蔵人、左近将監。楠木正成の一族。
建武3年(1336)、常陸国瓜連城に拠って北朝方と交戦したが、やがて敗れて常陸国西部に逃れた。正平3年(貞和4・1348)、四條畷合戦において高師直によって楠木正行は敗れ、正家も討死した。
しかし、ここで討死せずに出羽国に逃れたともいわれ、楠木氏の子孫が由利十二頭の打越氏となったといわれる。
所在地:秋田県由利郡大内町岩谷町字日渡100
   くのへ まさざね
 九戸 政実
天文5年(1536)~天正19年(1591)





左近将監。九戸城主。
九戸氏は南部氏の一族であるとされる。政実は武勇に優れ、政実の代に九戸氏は勢力を急速に拡大させたが、この時の南部氏の総領は三戸南部氏である24代晴政であった。

晴政には嫡子が無く、田子城の南部信直と政実の弟である実親にそれぞれ娘を嫁がせ養子としていた。やがて晴政に嫡子・晴継が生まれると、晴政は晴継に跡を継がせようとし、天正10年(1582)に晴政が死去した際には信直や実親を差置いて晴継が跡を継いで南部氏25代となった。しかし直後に晴継が急死すると、南部氏の家中は後継に信直を押す声と実親を押す声に二分され、評定の結果26代は信直が継ぐこととなった。

政実はこれを大いに不服とし、以後九戸氏は信直には従わなくなった。そしてついに天正19年(1591)3月、政実は5,000人の軍勢を率いて挙兵した。元々南部氏の中でも随一の精鋭であった九戸勢は強く、信直はこれを自力で抑えるのは無理と判断し、豊臣秀吉に援軍を求めた。

秀吉はこれに応じ、豊臣秀次を総大将とし、蒲生氏郷や浅野長政ら率いる6万5,000人の軍勢を差向けた。やがて討伐軍は九戸勢の籠る九戸城を包囲したが、九戸勢の猛反撃により攻めあぐねることとなった。やがて冬が来ることに焦った討伐軍は講和の使者として政実の旧知の仲である長興寺住職の薩天を使者として遣わした。長興寺住職の薩天和尚を使者として将兵の命は助ける事を条件として提示し、降伏を促した。

政実はそれを承諾し、反対した弟の実親を除く7人の将を引きつれ剃髪して降伏した。しかしその約束は反故にされ、政実ら8名の将を含む降伏した150人は宮城県栗原郡三迫に連行され、上品寺東南の丘で斬首された。政実の首級は泉で清められ、遺骸は塚に埋められたという。後にこれを哀れんだ村人が墓碑代わりに椿を植えて弔った。
明治元年(1868)頃、遠田郡の行者が荒果てた草むらの中より塚を見つけ、碑を建てて九ノ戸神社を建立した。


【画像上】大鳥公園(九ノ戸公園)に祀られた供養碑と椿
【画像中】九ノ戸神社
【画像下】首級清めの池
所在地:宮城県栗原市栗駒稲屋敷
   くめ ゆきなが
 久米 行長
?~?
飯詰城主。理佐衛門。飯詰三郎とも。
久米氏は六郷氏の一族であり、二階堂掃部が母方の姓を称して久米阿波守を名乗ったのが始まりとされる。
天文21年(1552)、小野寺輝道が横手城を奪還すべく、金沢城の金乗坊と戦った際に、行長は金乗坊側に属して防戦している。
天正14年(1586)5月、小野寺氏が最上氏と戦った有屋峠合戦においては、行長の二男である行固が小野寺氏に従い出陣、首級を2つ挙げている。その後も久米氏は小野寺氏の戦いにおいて従軍しているが、慶長5年(1600)に小野寺氏が改易となると、六郷氏に従って本荘城へ移った。
現在は飯詰城跡の麓に一族の墓が祀られている。
所在地:秋田県仙北郡美郷町飯詰
   くろがね やすただ
 黒金 泰忠
永禄7年(1564)~寛永12年(1635)
上野守。
島倉孫左衛門泰明の長男で初めは吉蔵孫左衛門を名乗る。後に黒金上野介景信の跡を継ぎ、黒金氏を称する。
慶長3年(1598)、6,200石の知行を与えられ、翌年には神指城築城の際に総奉行に任じられた。
慶長19年(1614)、大坂の陣に出陣し、田島表合戦において大和川堤の敵を撃ち破り、後に将軍・秀忠より感状と恩賞を受けた。この際、感状の宛名には「鉄」と記されており、以後に姓を鉄に改めた。
寛永12年1月21日死去。

所在地:山形県米沢市林泉寺1丁目2-3 林泉寺内
   くろかわ すえうじ
 黒川 季氏
?~?
黒川氏11代。
黒川氏は斯波氏の一族を出自とし、奥州探題大崎氏に仕えていたが、9代晴氏の代には伊達氏に従属していた。
10代義康は伊達政宗に1,000石の知行を与えられていたが、寛永3年(1626)に死去すると、嗣子がいないため断絶となった。義康の甥である季氏は白石城の白石氏と姻戚関係にあったため、根白石田中の地に隠棲し、この地で亡くなった。
所在地:宮城県仙台市泉区根白石館下
   こうの みちのぶ
 河野 通信
保元元年(1156)~貞応元年(1222)
河野通清の子。一遍の祖父。
治承4年(1180)に源頼朝が平氏に対して兵を挙げると、それに呼応して父・通清と共に伊予国で挙兵した。以後、頼朝に従って奥州合戦にも参加するなど活躍し、鎌倉幕府においては御家人として伊予国や陸奥国を与えられた。
承久3年(1221)、承久の乱において、通信は後鳥羽上皇側に付くが、上皇側が敗北すると降伏し、陸奥国江刺郡に流され、その地で没した。
墓所は「聖塚」と呼ばれており、かつては高貴な人物の墓所であるとのみ伝わっていたが、孫である一遍が諸国を遊行した様子を描いた絵巻物『一遍上人絵伝』に、弘安3年(1280)に祖父の墓前で供養を行う様子が描かれており、これがきっかけでこの聖塚が通信の墓所であることを発見する手がかりになった。
所在地:岩手県北上市稲瀬町水越
 ■ さ行
   さいしょういん
 裁松院
永正17年(1520)?~文禄3年(1594)
伊達氏15代晴宗の正室。岩城重隆の娘。久保姫。杉目御前。
岩城重隆の長女として生まれ、奥州一の美女として誉れ高かったといわれる。当初、結城晴綱に嫁ぐ事になっていたが、久保姫の美貌を知った晴宗が天文3年(1534)、輿入れの行列を襲撃して強引に妻にしたという。このような強引な婚姻経緯であったが夫婦仲は円満であり、晴宗との間に11人の子をもうけた。
晴宗が隠居して杉目城に移ると久保姫もこれに従い、杉目御前と呼ばれ、天正5年(1577)に晴宗が死去すると、剃髪して栽松院と称した。政宗の時代に伊達氏が旧大崎領に移封されると、栽松院は根白石の白石城跡に隠棲し、文禄3年(1594)にこの地で没した。
当初、墓石は五輪塔であったが風化が激しく、享保17年(1732)、伊達氏5代藩主吉村が現在の墓石を建立した。
戒名「栽松院殿月盛妙秋禅尼大姉」。
所在地:宮城県仙台市泉区根白石館下
   さいとう ただゆき
 斎藤 忠志
?~慶長6年(1601)
十蔵。和賀氏家臣。
平士の身分ながら豪の者であったといわれる。
慶長5年(1600)、和賀忠親が旧臣を率いて一揆を蜂起し、南部領を攻撃した際、これに従っている。
忠親が国分寺にて自害(殺害されたともいう)した際、他の家臣6人らと共に殉死(殺害)したとされる。主従8人は国分尼寺に葬られ、享保5年(1720)、忠親の曾孫である直義の手によって墓石が建立された。現在の墓石は後年に建て直されたもので、忠親の五輪塔は昭和12年(1937)に、主従の五輪塔が昭和59年(1984)に建立されたものである。
所在地:宮城県仙台市若林区白萩町33-26
   さがえ じゅうべえ
 寒河江 十兵衛
?~慶長19年(1614)
寒河江大江氏一族で、後に最上氏家臣。
寒河江氏が天正12年(1584)に最上義光に滅ぼされると、十兵衛は義光に降り、1,500石(一説には260石)の知行を得た。義光は十兵衛の武骨さを気に入り重用したとされる。
慶長19年(1614)、義光が亡くなった際に殉死した。
所在地:山形県山形市鉄砲町2丁目5-7 光禅寺内
   さがえ ひぜんのかみ
 寒河江 肥前守
?~慶長19年(1614)
実名不詳。寒河江大江氏一族で、後に最上氏家臣。
寒河江氏が天正12年(1584)に最上義光に滅ぼされると、肥前守は義光に降り、南楯に2万7,000石で封じられた。
慶長19年(1614)、義光が亡くなった際に殉死した。
所在地:山形県山形市鉄砲町2丁目5-7 光禅寺内
   さくらば なおつな
 桜庭 直綱
?~元和6年(1620)
安房守。南部信直、利直の家臣。
赤石館主として2,000石を領し、天正20年(1592)、南部氏の諸城破却令の頃より三戸城内に居住している。
当初、佐々木与三郎と名乗っていたが、天正17年(1589)に元服した際に南部信直より「直」の一字と国次の脇差を賜った。

戒名「捐館覚翁圓公居士」。

所在地:青森県三戸郡南部町大字小向字正寿寺62-1 三光寺内
   さけのべ ひでつな
 鮭延 秀綱
永禄6年(1563)~正保3年(1646)
典膳、越前守。佐々木貞綱の子。鮭延城主。
横手城主・小野寺義道の縁戚であり、家臣でもあったが、最上義光の調略を受け最上氏に降った。その後は最上氏の対小野寺氏の先鋒として活躍した。慶長5年(1600)の慶長出羽合戦においては上杉勢に包囲された長谷堂城の応援に参陣し、功をあげた。
元和3年(1617)、最上氏が改易となると下総国佐倉藩の土井利勝の下へ預けられたが、後に許されると土井氏へ仕えた。この際、土井氏より与えられた知行は全て家臣に与え、自分は家臣の下を転々として生活していたといわれる。

所在地:山形県最上郡真室川町大字新町22-13 正源寺内
   さたけ よししげ
 佐竹 義重
天文16年(1547)~慶長17年(1612)
常陸介。佐竹義昭の嫡子。
「鬼義重」の異名で恐れられ、北条氏や伊達氏らと関東・奥羽の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築いた。
嫡子義宣が関ヶ原合戦の折に徳川家康に味方せず、これにより慶長7年(1602)、佐竹氏は秋田に転封された。義重はこれに従い秋田に入部し、義宣とは別に六郷城に入城して現地の反抗に睨みを利かせていた。
慶長17年(1612)、落馬の怪我が元で死去。
当初は楢山にあった天徳寺に埋葬されたが、翌年に信寺が建立され、改葬された。
戒名「知足院殿通庵信大居士」。
所在地:秋田県秋田市手形字蛇野89 信寺内
   さたけ よしたね
 佐竹 義種
永禄10年(1567)~元和5年(1619)
淡路守。佐竹南家3代。
佐竹南家2代義向の嫡子として生まれる。義種が5歳の時に義向が亡くなったため、伯父の佐竹義重に養育された。天正17年(1580)には従兄弟の義宣と共に元服を迎え、以降は義重・義宣父子を補佐して北条氏と戦った。
慶長7年(1602)、佐竹氏が出羽国へ転封の命を受けると、義種は先んじて出羽国へ赴き、義宣を迎えた。
転封後は、湯沢の地が最上氏・伊達氏の領地と接している事からその抑えとして8,900石を与えられ湯沢城代を勤めた。その際、義種は山城である湯沢城を居城とせず、麓に居館を築いた。
元和5年(1619)に死去。跡を嫡子である義章が継いだ。
戒名「霊苗院殿天翁彦公大居士」。
所在地:秋田県湯沢市内町7-13 清涼寺内
   さたけ よしのぶ
 佐竹 義宣
元亀元年(1570)~寛永10年(1633)
左近衛中将、右京大夫。佐竹義重の嫡子。
天正17年(1589)、義重の隠居に伴い家督を相続した。
当時の佐竹氏は北条氏・伊達氏との抗争の最中であったが、豊臣秀吉の小田原征伐において所領を安堵される。やがて常陸国で54万石を領有し、豊臣政権では6番目の規模までに成長した。
しかし慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において、義宣は曖昧な態度を取ったため、慶長7年(1602)、所領を21万石に減らされ秋田へ転封となった。秋田の地では久保田城を築き、町造りや新田開発を積極的に取り組んだ。
寛永10年(1633)、江戸屋敷にて死去。寛文12年(1672)、佐竹藩主3代である義処が入母屋造・鉄板葺の霊廟を建立、歴代の佐竹藩主を祀っている。
戒名「浄光院殿傑堂天英大居士」。
所在地:秋田県秋田市泉三嶽根10-1 天徳寺内
   さなだ のぶしげ
 真田 信繁
永禄10年(1567)~慶長20年(1615)
真田昌幸の二男。左衛門佐。通称・幸村。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において西軍に付いた真田昌幸・信繁父子は紀伊国九度山に配流された。慶長16年(1611)に昌幸が死去し、その後、豊臣氏の求めに応じて九度山を脱出した信繁は大坂城に入城した。元和元年(1615)、大坂夏の陣において奮戦するも討死したとされる。
一方、大坂では死亡せず、薩摩国に落延びたという伝説が残る。その後、信濃国、陸奥国恐山を経て出羽国大館へ流れ着いた。そこで信濃屋市兵衛を名乗り、寛永18年(1641)に死去したという。
昭和28年(1953)、三百十三回忌において新しい墓石が建立された。
所在地:秋田県大館市一心町 一心院内
   さなだ もりのぶ
 真田 守信
慶長17年(1612)~寛文10年(1670)
真田信繁の二男。幼名・大八。四郎兵衛。
慶長17年(1612)、父・信繁が紀伊国九度山に配流されていた時に生まれる。慶長20年(1615)の大坂夏の陣において父と兄・大助を亡くすが、大八は家臣らに守られて落延びた。その際、姉と共に片倉重長に保護され、後に片倉守信と名乗って家臣として召抱えられた。
伊達氏は守信の存在をひた隠し、8歳で事故死した事にし、さらに幕府に対しては「真田信伊(信繁の叔父で徳川幕府旗本)の二男・政信の子」と報告している。
守信の死後、嫡子・辰信の代に幕府に真田姓を名乗る事を赦された。
所在地:宮城県白石市字本町62 当信寺内
   さはら よしつら
 佐原 義連
? ~建仁2年(1203)
佐原義連は相模国三浦半島を支配していた三浦氏の一族で、源頼朝の奥州合戦の功により陸奥国会津を与えられた。義連自身は会津へは下らず、子孫が会津へ入って後に蘆名氏と称した。宝篋印塔は応永年間(1394~1427)の形式である事から、義連の没後しばらくしてから建立したものと見られる。
寛文8年(1668)には保科正之が山崎闇斎に命じて史実を探り、元禄8年(1695)に松平正容が跡を継いで「佐原義連之碑」を宝篋印塔のそばに建立している。
塔の周囲にある五輪10基は家臣の墓といわれるが、現存の物は明治44年(1911)に改修したものである。
所在地:福島県耶麻郡熱塩加納村大字宮川字墓の西
   さとみ かげより
 里見 景佐
? ~元和5年(1620)
里見景佐は天正12年(1584)に東根城主になると、城を大規模に改修し城下町も整備、現在の東根市の基礎を築いた。
主家最上氏の信任も厚く、最上氏の先行きを案じながら元和6年(1620)に没した。戒名「劫外院殿雪山寒公大居士」。
翌元和7年(1621)、景佐の嫡子である親宣によって五輪塔が建立された。宝形造の覆堂は元禄5年(1692)年に建造され、東根市内では最も古い木造建築である。
所在地:山形県東根市東根甲203
   さとみ よしちか
 里見 義近
? ~慶長19年(1614)
越後守。上山城主里見民部の父。
慶長8年(1603)、最上義光の嫡子であった義康は、民部とその子権兵衛の手によって暗殺された。
その結果、里見氏は義光の怒りを買う事となり、身の危険を察した義近は民部や権兵衛らを引連れ上山城を出奔した。
一行は加賀国前田氏を頼ろうとしたが、義光の訴えにより引渡され、尾浦城主の下治右衛門吉忠に預けられた。その後丸岡に移されたが、慶長19年(1614)1月、死期が迫った義光の遺言によって義近・民部・権兵衛一族とその主従らは自刃させられた。
所在地:山形県鶴岡市丸岡町の内36 天澤寺内
   しだ よしひで
 志駄 義秀
永禄3年(1560)~寛永9年(1632)
源四郎。修理亮。志駄義時の子。苗字は志田とも表記。
上杉謙信に仕え、天正6年(1578)の御館の乱においては上杉景勝に従い、武功を挙げた。
景勝の下では与板衆の筆頭として直江兼続の配下に属し、東禅寺城の城主となった。
慶長5年(1600)、出羽合戦において最上氏を攻撃したが、翌慶長6年(1601)に東禅寺城が最上勢に攻撃され、米沢に退却した。
後の元和8年(1622)には奉行職に任じられ、上杉氏の中枢として活躍した。
所在地:山形県米沢市万世町堂森山下375 善光寺内
   しむら みつやす
 志村 光安
? ~慶長14年(1609)
伊豆守。高治とも。最上義光の家臣。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、上杉勢が最上領に侵攻するに至り、光安は長谷堂城に籠城した。長谷堂城の守兵1,000名に対し、直江兼続率いる上杉勢約2万名という圧倒的不利の状況であったが、鮭延秀綱の援護も受けて、ついに長谷堂城を守りきった。
戦後、その功により東禅寺城3万石を封じられた。

武勇に優れ、「如何なる強敵も彼の前には降った」と評される。
所在地:山形県酒田市亀ケ崎4丁目1-23 青原寺内
   しもむら おくなが
 下村 奥長
? ~文禄2年(1593)
下村館館主。蔵人。由利十二頭の一人に数えられる。
元亀3年(1572)、石沢館の石沢氏と大琴で合戦に及び、天正10年(1582)に小野寺氏と由利勢が戦った大沢山合戦にも由利十二頭の一人として参陣している。また天正19年の九戸政実の乱にも出陣した。
文禄2年(1593.)、仁賀保氏らの攻撃により根城館で討死したと伝わるが、詳細は不明である。
戒名「本願院殿月山心光大居士」。
所在地:秋田県由利本荘市東由利蔵字蔵127-2 蔵立寺内
   しょうこういん
 祥光院
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伊達政宗の側室。
寺の過去帳によると塙団右衛門直之の娘といわれるが、詳細は不明である。伊達政宗の側室となり、政宗の四男である宗泰を生んだ。
慶長8年(1603)、宗泰が岩出山城主となり、祥光院もこれに従って移り住んだものと思われる。後に孫である岩出山伊達氏2代宗敏により祥光寺が建立された。
所在地:宮城県大崎市岩出山字大学町96 祥光寺内
   しょうとういん
 正洞院
永禄9年(1566)~天正19年(1591)
佐竹義宣正室。那須資胤の三女。那須御前とも。
天正13年(1585)に佐竹義宣の元へ嫁いだ。
しかし天正19年(1591)4月18日、常陸国太田城で24歳の若さにして自害を遂げた。その死は謎に包まれているとされるが、一説には徳川方に近い実家・那須氏と豊臣政権の中で重要な位置にいた夫との間で板挟みの立場にあった事が原因ともといわれる。
当初、常陸国耕山寺に葬られたが、後に義宣は慶長6年(1601)に江戸に正洞寺を建立し、翌年の秋田転封においても居城・久保田城下に正洞院を建立してその霊を弔った。
明治時代に入ると秋田の正洞院は廃寺となり、現在は墓所のみが残っている。
所在地:秋田県秋田市手形字大沢
   しらとり ながひさ
 白鳥 長久
? ~天正12年(1584)
白鳥城主、後に谷地城主。十郎とも。
文武に優れ、出羽国村山地方に勢力を伸ばした。
天正5年(1577)には織田信長に名馬「白雲雀」を送るなどして積極的に外交を展開し、出羽国南部において最上義光に並ぶ力を持つようになった。
しかしこれは義光の警戒を呼ぶ事となり、天正12年(1584)、義光は重病を偽って長久を招き、これに応じた長久は城内で暗殺された。この際に長久の返り血を浴びた「血染めの桜」が近年まで山形城跡に残っていたという。
所在地:山形県西村山郡河北町谷地乙153 東林寺内
   すいばら ちかのり
 水原 親憲
天文15年(1546)~元和2年(1616)
大関親信の子。上杉謙信に仕え、後に水原氏を継ぐ。
謙信の死後は景勝に従い、上杉氏の会津移封後には猪苗代城の城代となった。慶長5年(1600)、直江兼続率いる上杉勢の最上領侵攻にも従っている。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣においては鉄砲隊を率いて活躍し、徳川2代将軍秀忠より感状を与えられた際に「子供の石合戦のような戦いで褒められるとは」と悔しがったとされる。
また、その際の感状に「杉原」と記されていたため、そのまま杉原に改姓したという。
所在地:山形県米沢市林泉寺1丁目2-3
   すが ろくろう
 菅 六郎
?~文禄2年(1593)
館堀城城主。実名不詳。内記。
小野寺氏の一族であり、天正14年(1586)の有屋峠合戦においては小野寺義道に従って最上勢と戦い、首級を挙げている。
文禄2年(1593)8月、最上勢が小野寺領に侵攻すると、六郎は弟の勘四郎・勘助らと共に一族郎党を率いて有屋峠にて最上勢を迎え撃った。しかし形勢は不利でありやむなく撤退し、草井崎にて再度迎撃した。しかし多勢に無勢、奮戦むなしく竜神河原にて討死した。後世、その地は「六郎河原」と呼ばれ、現在も地名として残っている。
六郎の墓石は洪水により流失したが、後日発見され旧県道脇に設置された。現在は子孫の墓地に移されている。文字は磨耗しており、判読不明である。
所在地:秋田県湯沢市横堀字白銀町30 本行寺内
   すずき しげのぶ
 鈴木 重信
永禄5年(1562)~慶長5年(1600)
将監。伊達政宗の家臣である白石氏の家臣。
白石若狭守宗実に仕え天正13年(1585)の摺上原合戦に従軍し、文禄元年(1592)の朝鮮出兵にも参加して功を挙げた。
慶長5年(1600)、和賀忠親が蜂起した際、伊達政宗は密かに白石宗直に和賀勢に援助することを命じた。重信は白石軍の先陣として和賀氏の籠る岩崎城に入ろうとしたが南部勢に阻まれ、夏油川周辺で南部勢の将・富沢日向入道由斎に討たれた。
重信が倒れた事を知った家臣たちはその首を持って逃げ、葛西壇に埋めたという。
所在地:岩手県北上市相去町葛西檀
   すずき もとのぶ
 鈴木 元信
弘治元年(1555)~元和6年(1620)
七右衛門。和泉守。従五位下。
その出自は定かではなく、米沢の商人である、雑賀衆である、京の茶人であるなど諸説ある。
内政能力に優れ政宗の信任が厚く、古川城に1,500石をもって封じられる。政宗が仙台を留守にする際には国家老として政務を取仕切った。
いずれ政宗が天下を取ることを信じ、伊達政権のための式目を用意していたが、自らの臨終の際、後顧の憂いとなるため焼き捨てさせたという。この時代には既に徳川幕府の力は磐石となり、天下が転ぶことは考え難かったのである。
所在地:宮城県大崎市古川三日町2丁目2-2 瑞川寺
   すすまご よししげ
 煤孫 義重
?~慶長6年(1601)
上野守。和賀氏家臣。煤孫下野守治義と同一人物か。
慶長5年(1600)、和賀忠親が旧臣を率いて一揆を蜂起し、南部領を攻撃した際、これに従っている。
義重は大身の豪傑であったといわれ、一揆勢が敗北して岩崎城へ退却する際には忠親を助け、馬場野に踏み止まって殿を務めたという。その後、岩崎城籠城戦においては大手門の守将を務めている。
忠親が国分寺にて自害(殺害されたともいう)した際、他の家臣6人らと共に殉死(殺害)したとされる。主従8人は国分尼寺に葬られ、享保5年(1720)、忠親の曾孫である直義の手によって墓石が建立された。現在の墓石は後年に建て直されたもので、忠親の五輪塔は昭和12年(1937)に、主従の五輪塔が昭和59年(1984)に建立されたものである。
所在地:宮城県仙台市若林区白萩町33-26
   せんとういん
 仙洞院
大栄4年(1524)もしくは享禄元年(1528)
~慶長14年(1609)
仙桃院とも。名は綾姫と伝えられる。
越後国守護代・長尾為景の娘として生まれ、坂戸城守・長尾政景に嫁ぐ。二男二女を生み、長男である義景は10歳で早世したが、二男は後に仙洞院の弟である上杉謙信の養子となり、上杉景勝と名乗っている。
永禄7年(1564)、夫である政景の死後は謙信の招きにより景勝と共に春日山城に移り住んだ。謙信の死後は景勝の転封と共に慶長3年(1598)には陸奥国会津へ、慶長6年(1601)には出羽国米沢へと移り、慶長14年(1609)に米沢城二ノ丸にて死去した。
戒名「仙洞院殿知三道早首座」
所在地:山形県米沢市林泉寺1丁目2-3 林泉寺内
 ■ た行
   たけだ のぶきよ
 
武田 信清
永禄3年(1560)~寛永19年(1642)
武田信玄の六男(七男とも)。
永禄10年(1567)、巨摩郡加賀美の法善寺に入門し、玄竜と号した。後に兄である勝頼の命により還俗し、安田氏の名跡を継いで安田三郎信清と名乗り、海野城城主となった。
天正9年(1582)、武田氏が滅亡すると、上杉景勝の正室である姉・菊姫を頼って越後国に逃れ、上杉氏の下で3,300石の知行を与えられ武田姓に復帰した。
江戸時代の米沢藩においても高家衆として厚遇され、寛永19年(1642)に死去した。
所在地:山形県米沢市林泉寺1丁目2-3 林泉寺内
   たておか みつくに
 
楯岡 満国
?~嘉吉2年(1442)
伊予守。最上氏3代満直の四男。
応永13年(1406)、楯岡城の城主となり、楯岡氏を称した。
祥雲寺を創建し、楯岡八幡神社の社殿を再建するなど、楯岡城の基盤を築いた。
嘉吉2年(1442)に死去。法名「祥雲寺殿明岩壽見大居士」。
死後、五輪塔と宝篋院塔が建立されたと推定されるが、その後荒廃し、宝暦12年(1762)に中山三郎兵衛知英によって整備され、祥雲寺内に墓碑を再建した。

所在地:山形県村山市楯岡湯沢14-1 祥雲寺内
   だて さねもと
 
伊達 実元
大永7年(1527)~天正15年(1587)
兵部大輔。伊達稙宗の三男。
外祖父である越後守護の上杉定実の養子と約されていたが、兄晴宗の反対により天文の乱が勃発し、話しは立消えとなった。

天正15年(1587)に隠居していた八丁目城にて61歳で没した。
当初は近隣の陽林寺に葬られたが、250回忌にあたる天保7年(1836)に亘理に霊屋が建立され、位牌が移された。建築は江戸時代末期の遺構をを残している。
所在地:宮城県亘理郡亘理町字泉ヶ入87‐2 大雄寺内
   だて しげざね
 
伊達 成実
永禄11年(1568)~正保3年(1646)
安房守。伊達実元の子。
伊達成実は慶長7年(1602)、亘理郡に2万4,000石を持って封じられ、正保3年(1646)に79歳で没した。
間もなく霊屋が建立され、方一間の宝形造で成実の甲冑姿の木造と位牌が安置されている。正面には殉死した成実の家臣である常盤蔵人元定・前田図書実信・但木越後直次・小川五兵衛高家の4人の五輪塔が建っている。
昭和55年(1979)、県指定文化財に指定された。
所在地:宮城県亘理郡亘理町字泉ヶ入87‐2 大雄寺内
   だて ただむね
 
伊達 忠宗
慶長4年(1600)~万治元年(1658)
右近衛少将。伊達政宗の二男。仙台藩2代藩主。
寛永13年(1636)、政宗の死去により家督を相続。
万治元年(1658)に死去。戒名「大慈院殿義山崇仁大居士」。
忠宗の霊屋は「感仙殿」と命名され、瑞鳳殿と同等の華麗なものであった。
しかし明治元年(1868)に本殿を除いて取り壊され、残った本殿も昭和20年(1945)の戦災で焼失した。
現在の霊屋は瑞鳳殿に続いて再建が進められ、昭和60年(1985)に完成したものである。
所在地:宮城県仙台市青葉区霊屋下23‐2
   だて たねむね
 
伊達 稙宗
長享2年(1488)~永禄8年(1565)
左京大夫、陸奥国守護。伊達尚宗の嫡子。伊達氏14世。
永正11年(1514)、父・尚宗の死去により家督を相続する。
稙宗は内政・外交に優れ、天文5年(1536)には分国法『塵芥集』を制定させた。また14男7女を儲けて近隣の諸大名に子女を送込み、縁組を成立させて奥羽地方一円に勢力を拡大した。
天文11年(1542)、三男・実元の上杉氏への入嗣問題や相馬顕胤への知行割譲問題に事を発した「天文の乱」が勃発すると、嫡子・晴宗と徹底抗戦したが、天文17年(1548)には和睦して晴宗に家督を譲り、自身は丸山城に隠居している。
永禄8年(1565)死去。戒名「知松院殿直山圓公大居士」。
死後、遺骸は位作山陽林寺に葬られたが、隠居城である丸山城にも墓が祀られている。
所在地:宮城県伊具郡丸森町丸森字新田
   だて つなむね
 伊達 綱宗
 
寛永17年(1640)~正徳元年(1711)
仙台藩3代藩主。忠宗の六男。
兄・光宗の夭折により嫡子となった。若年にして家督を継いだが、諸問題が重なり、万治3年(1660)、21歳にして幕府により強制的に隠居させられた。正徳元年(1711)、江戸にて死去。戒名「見性院殿雄山全威大居士」。
綱宗の霊屋は「善応殿」と命名され、感仙殿と同様に造営されたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失し、昭和60年(1985)、感仙殿とともに再建された。
所在地:宮城県仙台市青葉区霊屋下23‐2
   だて てるむね
 伊達 輝宗
 
天文13年(1544)?天正13年(1585)
伊達氏16代。彦太郎。総次郎。左京大夫。
伊達晴宗の二男として生まれる。長子である親隆は岩城氏の養子となっていたため世子となった。天文24年(1555)、元服して足利義輝の偏諱を受け輝宗と名乗り、永禄7年(1564)には最上義守の娘である義姫を正室に迎え、家督を継いだ。
伊達氏の当主となってからは、家中の実権を握っていた中野宗時・牧野久仲父子を追放し、遠藤基信・鬼庭義直らを重用し、最上氏や相馬氏と抗争を繰広げた。
天正12年(1584)、家督を嫡子である政宗に譲り、自らは館山城に退いて隠居した。
翌・天正13年(1585)、宮森城滞在中に訪れた畠山義継に拉致され、安達郡平石村高田近辺にて畠山勢と伊達勢の狭間で殺害された。一説には義継に刺殺されたとも、伊達勢の銃撃により射殺されたともいわれる。
亡骸は一旦荼毘に付され、資福寺に埋葬された。
戒名「覚範寺殿性山受心大居士」
所在地:山形県東置賜郡高畠町大字夏茂
   だて ともむね
 伊達 朝宗
 
大治4年(1129)~正治元年(1199.)


伊達氏始祖。念西。中村氏。伊佐氏。
藤原氏魚名流に属する中納言山蔭の末裔であり、常陸国新堀郡伊佐荘の荘司であった。
文治5年(1189)の源頼朝による奥州合戦において息子たちと共に参戦し、信夫郡石那坂も合戦により佐藤基治の軍勢を敗走させた功により恩賞として陸奥郡伊達郡を賜り、高子岡城に居を構えた。その息子・宗村の代に伊達氏を称したという。
文政4年(1821)、仙台藩主・伊達重村が五輪塔を建立した。江戸時代には伊達氏の参勤交代の折、藩主はここを訪れるのを通例としていたという。

発掘調査によって発見された出土瓦や堀割りなどから、この地は朝宗の菩提寺である満勝寺跡と推定されている。

【画像上】伊達朝宗墓所
【画像下】五輪塔










所在地:福島県伊達郡桑折町大字万正寺字下万正寺
   だて とらのすけ
 伊達 虎之助
 
? ~?
伊達兵部大輔宗勝の二男。
一関藩初代藩主である父の宗勝が、寛文11年(1671)に寛文事件(伊達騒動)により失脚し、土佐国へ流罪とされた。宗勝の嫡子であった宗興も豊前国小倉へ流されたが、庶子であった虎之助、兵蔵らは罪に問われず、お咎めはなかった。
その後、18歳の若さで死去したという。
所在地:宮城県大崎市岩出山字大学町96 祥光寺内
   だて のぶむね
 伊達 宣宗
 
文禄3年(1594)~寛永9年(1632)
佐竹義久の三男。伊達(国分)盛重の養嗣子。左門とも。
慶長6年(1601)、8歳の時に父・義久が死去。翌年に佐竹氏は常陸国から出羽国へ転封となる。その後、横手城城代である伊達盛重の養子となり、慶長13年(1608)に藩主・義宣に拝謁して一字を賜って宣宗と名乗った。慶長20年(1615)、養父・盛重が没すると伊達氏の跡を継いだ。
元和8年(1622)、横手城下を騒がせた「大眼宗事件」が起きた際、中心人物である巌中の捕縛に失敗し、この不手際によって宣宗は水沢の地に幽閉された。
3年後の寛永9年(1632)、39歳にて没する。その後、供養のために塚が建てられ、「左門塚」と呼ばれた。
所在地:秋田県横手市大森町板井田字岩ノ台
   だて むねきよ
 伊達 宗清
 
慶長5年(1600)~寛永11年(1634)
権八郎。河内守。父は伊達政宗、実兄は宇和島藩初代藩主・伊達秀宗。
伊達政宗の三男として京都伏見にて生まれる。生母は政宗の側室・新造の方であったが早くに亡くなったため慶長9年(1604)、飯坂の局の養子となり、飯坂氏を継いだ。
慶長18年(1613)、陸奥国黒川郡吉岡に3万8,000石で封じられ、下草城を居城としたが、元和2年(1616)には吉岡要害を築いた。
寛永11年(1634)、子が不在のまま死去。跡を桑折重長の子・定長が継いだ。
所在地:宮城県黒川郡大和町吉岡字天皇寺184-20 天皇寺内
   だて まさむね
 伊達 政宗
 
文和2年(1353)~応永12年(1405)
大膳大夫。伊達氏8代宗遠の嫡子。伊達氏9代。
伊達氏中興の祖といわれ、後の仙台藩初代藩主・伊達政宗の名はこの政宗にあやかって名付けられた。
永和3年(天授3・1377)に家督を継いだ後、父・宗遠と共に置賜郡へ侵攻し、志徳2年(元中2・1385)には地頭職であった長井氏を滅ぼして置賜郡を支配した。
応永6年(1399)、鎌倉公方である足利義兼が陸奥国・出羽国を支配することを目的に、弟である満貞を陸奥国岩瀬郡稲村へ、満直を陸奥国安積郡篠川へそれぞれ派遣し、伊達氏に領土献上を求めてきた。これに対し政宗は激怒し、奥州管領・大崎詮持や蘆名満盛らと連携して鎌倉へ侵攻を始める。しかし、白川満朝が鎌倉側に立った事により、政宗は敗れて出羽国へ撤退した。これに乗じ、満貞は政宗の追討令を出し、上杉氏憲率いる討伐軍を差向け、政宗は一旦はこれを撃破するも、周囲の勢力が鎌倉側に付いた事により敗退する。しかし、この一件により伊達政宗の名は奥州に轟くことになった。
応永12年(1405)、出羽国高畑城にて死去。
所在地:山形県東置賜郡高畠町大字夏茂
   だて まさむね
 伊達 政宗
 
永禄10年(1567)~寛永13年(1636)
権中納言。伊達輝宗の嫡子。仙台藩初代藩主。
仙台藩初代藩主伊達政宗は、生前に自らの遺骸を仙台の経ヶ峯に葬ることを指示し、寛永13年(1636)5月24日に没した。遺言に沿って翌年の寛永14年10月に2代藩主忠宗によって経ヶ峯に霊屋が造営され、「瑞鳳殿」と命名された。
瑞鳳殿は桃山様式の遺風を伝える豪華絢爛たる廟建築として昭和6年(1931)国宝に指定されたが、昭和20年(1945)の戦災で惜しくも焼失した。昭和49年(1974)、再建工事に先立ち、跡地の発掘調査が行われ、政宗の遺骨や副葬品が出土している。現在の本殿拝殿・涅槃門は、昭和54年(1979)に再建されたものである。
所在地:宮城県仙台市青葉区霊屋下23‐2
   たむら きよあき
 田村 清顕
 
?~天正14年(1586)
陸奥国三春城主。田村隆顕の嫡子。
隆顕の死後、田村氏の当主となった。
嫡子に恵まれず、近隣の蘆名氏や佐竹氏に対抗するために一人娘の愛姫を伊達政宗へ嫁がせ、伊達氏の後援により独立を維持した。
しかし天正14年(1586)に清顕が死去すると家中は混乱し、結果的に清顕の甥である田村宗顕が跡を継いだが、豊臣秀吉の奥羽仕置において田村氏は改易となった。
後に宗顕は政宗正室の愛姫の招きにより仙台領白石に移住し、白石城主・片倉景綱の姉、片倉喜多の名跡を継いだ。
所在地:宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山
   ちさか かげちか
 千坂 景親
 
天文5年(1536)~慶長11年(1606)
対馬守。清胤。千坂藤右衛門景長の子。
千坂氏は代々上杉氏に仕え、四家老の一つに数えられていた。景親は謙信の代より仕え、伏見や江戸桜田の上杉屋敷を統括するなどして活躍した。
慶長8年(1603)、米沢藩の初代江戸家老となるも、3年後の慶長11年(1606)に死去する。その後も千坂家は代々、米沢藩にて要職を務めた。

所在地:山形県米沢市相生町7-109 日朝寺内
   ちば よりたね
 千葉 頼胤
 
?~建久4年(1193)
唐梅館館主。左衛門尉。長坂千葉氏の始祖。
文治5年(1190)の奥州合戦において源頼朝に従い軍功を上た。その後、葛西清重が奥州総奉行に任じられるとそれに属し、陸奥国長坂を賜って長坂千葉氏を称した。建久2年(1191)、唐梅館を築いて居城としている。
建久4年(1193)7月15日没。戒名「蓮清院前羽林霊字正山公代居士」。

唐梅館主郭跡に「従四位下少将千葉之介平頼胤」と刻まれた高さ5尺5寸(約1.7m)、幅1尺4寸(約40cm)の墓標が祀られている。
所在地:岩手県一関市東山町長坂字西本町
   ちゅうじょう ひでなが
 中条 秀長
?~応永12年(1406)か
備前守。鎌倉幕府で要職に付いていた中条頼平の三男。
秀長は尾張国守護を務め、至徳4年(1384)に没したとされる。
しかし異説では応永年間(1394~1428)に寒河江荘・堀口郷の地頭に任じられ、応永3年(1396)には田村荘司の乱に参陣して軍功を立てたといわれる。
応永12年(1406)に堀口の館で没した。
所在地:山形県西村山郡河北町谷地68 慈眼寺内
   つがる ためのぶ
 津軽 為信
 
天文19年(1550)~慶長12年(1607)
右京太夫。津軽藩初代藩主。
為信は慶長12年に京で没したが、遺骸は2代藩主信枚公が弘前まで運び、格翁禅師を導師として葬儀を執り行い、革秀寺を廟所として埋葬した。
霊屋は枡行・梁間共に1間の平面が正方形の形であり、柱は円柱、軒は二重繁?入母屋造、妻入で前面に小さく唐破風をつけている。内部には四十九院板塔婆を張付け、後ろの壁に寄せるように石造塔婆を安置している。
菩提寺となった革秀寺は藩政時代に聖域とされ、庶民だけでなく、武士の立入りも厳しく制限されたといわれる。
昭和28年(1953)11月14日、弘前市重要文化財に指定された。
所在地:青森県弘前市藤代1丁目4-1
   つつい ただおき
 筒井 忠意
?~慶長6年(1601)
喜助。和賀氏家臣。平士の身分であったといわれる。
慶長5年(1600)、和賀忠親が旧臣を率いて一揆を蜂起し、南部領を攻撃した際、これに従っている。
忠親が国分寺にて自害(殺害されたともいう)した際、他の家臣6人らと共に殉死(殺害)したとされる。主従8人は国分尼寺に葬られ、享保5年(1720)、忠親の曾孫である直義の手によって墓石が建立された。現在の墓石は後年に建て直されたもので、忠親の五輪塔は昭和12年(1937)に、主従の五輪塔が昭和59年(1984)に建立されたものである。
所在地:宮城県仙台市若林区白萩町33-26
   つつみ のりかげ
 堤 則景
 
?~天文23年(1554)
堤則景は横内城にて堤氏を名乗り外ヶ浜を支配した堤弾正の3代目であり、剛勇をもって謳われていた。
則景は天文23年(1554)、九戸南部の乱において堀越城主である武田甚三郎守信と共に出陣し、桜庭の地(秋田県鹿角市)において討死した。則景の妻である朝日御前は剃髪し、永禄4年(1561)に後を追うように亡くなり、横内城跡に建つ常福院に葬られた。
その後、青森市浦町奥野の土中より則景の墓石といわれる五輪塔が掘り出され、常福院に朝日御前の墓石と共に一対の石塔として祀られている。
所在地:青森県青森市横内字亀井146-1 常福院内
   てんどう よりさだ
 天童 頼貞
 
?~?
和泉守。天童城主。天童頼道の二男。
兄である頼長が死去したため、家督を継いで天童氏16代当主となった。天童氏は山形城主・最上氏の傍流であり、頼貞も最上義守に従っていた。
天正2年(1574)、義守とその嫡子・義光の間で争いが起こると、頼貞は義守方に付き、寒河江兼広が城主である寒河江城を攻撃した。天正5年(1577)には義光の攻撃を受けたが、頼貞の娘を義光の側室にする事で和睦が成立した。その後の頼貞の動向は不明であるが、子の頼澄の代に義光の攻撃を受け、滅亡している。
この天童氏が滅亡する要因となった八幡山合戦古戦場跡に天童氏7代を祀る五輪塔が安置されている。
所在地:山形県天童市原町
   とうぜんじ かつまさ
 東禅寺 勝正
 
天文14年(1545)?~天正16年(1588)
右馬頭。前森蔵人(東禅寺義長)の弟。
天正15年(1587)兄と共に尾浦城の武藤義興を攻撃し、義興を殺害して尾浦城を東禅寺氏のものとした。
しかし義興の養子である義勝は越後国の実父・本庄繁長の下へ逃れ、翌天正16年(1588)に庄内奪還のため侵攻する。
前森蔵人は弟の東禅寺右馬頭勝正を総大将として迎撃させ、尾浦城下の十五里ヶ原で両軍は激突した。しかし数で劣る東禅寺勢は苦戦を強いられ、結果東禅寺勢は敗走した。その最中、勝正は自ら本庄勢に斬込み、繁長に一太刀浴びせたが目的を達せずに最期を遂げた。
その際、勝正が手にしていた名刀「正宗」は繁長の手に渡り、「本庄正宗」と呼ばれ、繁長の主君・上杉景勝を経て豊臣秀吉・徳川家へと渡っている。
所在地:山形県鶴岡市友江字中野
   とうまい よしつぐ
 玉米 義次
 
天文23年(1554)?~元和元年(1615)?
式部少輔。弥三郎。光国とも。
玉米氏は玉前氏、米氏とも称し、由利十二頭の一人に数えられ、米本館を居館にしていた。
義次の父、義満は男子がなく、雄勝郡の山田氏より婿を迎えていた。しかし義満に義次が生まれると、婿とはの間は不和になり、義次は山田氏の下へ誘拐された。その後、家老・杉山宗右衛門の背信もあって永禄3年(1560)、義満は山田氏との争いに敗れ自害した。永禄6年(1563)、家臣の尽力により義次は山田氏の下から取り戻され、養田館に匿われた。
その後の動向は不明であるが、天正18年(1590)の奥羽仕置の時には名が見えない事から何らかの事情により離散したものと思われる。
現在、由利本荘市東由利の泉秀寺に義次の物と思しき墓碑が残っている。
戒名「玉米院殿梅岩(岸?)高公大居士」
所在地:秋田県由利本荘市東由利老方字老方10 泉秀寺内
   どくざわ よしもり
 毒沢 義森
?~慶長6年(1601)
修理。和賀氏家臣。毒沢民部少輔頼一と同一人物。
慶長5年(1600)、和賀忠親が旧臣を率いて一揆を蜂起し、南部領を攻撃した際、これに従っている。
忠親が国分寺にて自害(殺害されたともいう)した際、他の家臣6人らと共に殉死(殺害)したとされる。主従8人は国分尼寺に葬られ、享保5年(1720)、忠親の曾孫である直義の手によって墓石が建立された。現在の墓石は後年に建て直されたもので、忠親の五輪塔は昭和12年(1937)に、主従の五輪塔が昭和59年(1984)に建立されたものである。
所在地:宮城県仙台市若林区白萩町33-26
   とざわ まさもり
 
戸沢 政盛
天正13年(1585)~慶安元年(1648)
右京亮。戸沢盛安の嫡子。
政盛が5歳の時に父盛安が急死し、跡を継いだ叔父の光盛も相次いで亡くなったためその跡を継いで家督を相続した。
慶安元年(1648)に江戸にて64歳で没すると、封地である新庄の瑞雲院に葬られた。しかし瑞雲院は元禄14年に火事になり、北方に移転された。霊屋はいずれも総欅造で、石場の上に土台据えで丸柱を建て、柱間に厚い板をはめ込んで壁とした単層宝形造であった。
昭和62年(1987)国指定史跡に指定された。
所在地:山形県新庄市十日町太田468-12 瑞雲院内
   とべ まさなお
 
戸部 正直
天保2年(1645)~宝永4年(1707)
一憨斎。医師。
出羽国雄勝郡横堀村に生まれる。父の忠直は関ヶ原合戦の際に豊臣勢に与し、出羽国の院内銀山に逃れたとされる。
正直は若い時より諸国を巡歴して古老の話を聞くなどして、元禄11年(1698)に『奥羽永慶軍記』全39巻を著した。永禄年間(1558~1570)から慶長年間(1596~1615)にかけての奥羽地方の戦国史をまとめており、これが書名の由来となっている。伝聞を綴ったために誤記や混同も多いが、当時の奥羽地方の一級資料は数少ないために、研究には欠かせない史料となっている。
現在、自筆本は現存せず、写本が数部現存している。
また、正直が描いたとされる絵画も多く残っており、『長谷堂合戦図屏風』は特に有名である。
所在地:秋田県湯沢市横堀字真木沢
 ■ な行
   なおえ かねつぐ
 直江 兼続
永禄3年(1560)~元和5年(1620)
山城守。越後国与板城主樋口惣右衛門の子。
兼続は上杉景勝の家老を務め、景勝に会津120万石に封じられた際、兼続には出羽国米沢に30万石を与えられた。
兼続は元和5年(1620)に江戸屋敷で没した。
初めは米沢の徳昌寺に葬られたが、後に米沢藩内の曹洞宗寺院を統括する地位をめぐり、徳昌寺と林泉寺が争った結果、徳昌寺は敗れて廃寺となったために林泉寺に改葬された。
昭和26年(1951)2月23日 山形県指定文化財に指定された。
所在地:山形県米沢市林泉寺1丁目2-3 林泉寺内
   ながおか たじまのかみ
 長岡 但馬守
?~慶長19年(1614)
実名不詳。最上氏家臣。
慶長19年(1614)、最上義光が死去すると、後を追って殉死した。
所在地:山形県山形市鉄砲町2丁目5-7 光禅寺内
   なら さだちか
 奈良 貞親
文明7年(1475)か~大永6年(1526年)
主水。源貞政の子。
貞親は応仁年間(1467~68)頃に奈良にて浪人をしていたが、越後・出羽と流れて大浦光信の臣となった。
大永3年(1523)、光信が種里八幡宮を建立すると、初代神官に任じられた。後に館前、萩の館合戦において活躍し、奈良姓を名乗った。
大永6年(1526年)、貞親が51歳の時、主君・光信が病に倒れた。その際、光信の命により殉死する。死後、光信の廟所近くに葬られた。
所在地:青森県西津軽郡鰺ヶ沢町大字種里町大柳91
   なんぶ さねみつ
 南部 実光
治承5年(1181)~建長6年(1254年)
南部氏2代。南部初代光行の二男であり、兄の行朝が庶子であったため父の跡を継いだ。
建保7年(1219)、鎌倉将軍3代・源実朝が公暁に暗殺されるにおいて、実光はこの騒乱を避けて陸奥国糠部郡に下向した。
その後、兄弟らである行朝(長兄)を一戸に、朝清(三男)を七戸に、宗朝(四男)を四戸に、行連(五男)を九戸に、実長(六男)を甲斐国巨摩郡に配して支配体制を強化した。
戒名「三光院殿鶴林素公大居士」。
所在地:青森県三戸郡南部町大字小向字正寿寺62-1 三光寺内
   なんぶ としなお
 南部 利直
天正4年(1576)~寛永9年(1632年)
南部藩初代藩主。南部氏27代。信直の長子。信濃守。
慶長4年(1599)に父の死去により南部氏を継いだ。
その治世の時期は、関ヶ原合戦を経て江戸時代の藩政期に至る重要な時期であったが、和賀一揆の鎮圧や、盛岡城の築城などを実施し、盛岡藩の基礎を固めた。
寛永9年(1632)、江戸桜田屋敷にて死去。戒名「南宗院殿月渓晴公大居士」。
その跡は三男・重直が継ぎ、同年中、もしくは翌寛永10年(1633)に霊廟が建てられたとされる。

現在、一般公開は行っていない。
所在地:青森県三戸郡南部町大字小向字正寿寺62-1 三光寺内
   なんぶ としやす
 南部 利康
慶長13年(1608)~寛永8年(1631年)
南部氏27代利直の四男。
浅水城主・南遠江守直義の跡を継いで5,000石の知行を領した。
三戸城二ノ丸に常住し、利直が不在の際は国政を仕切っていたという。
寛永8年(1631)、24歳の若さで死去。戒名「?巌蘊公大禅定門」。死後、その死を嘆いた父・利直によって三戸郡1年分の収入を当てて霊廟を建立された。
現在、霊廟はは覆堂で覆われているが、中の拝観は可能である。
所在地:青森県三戸郡南部町大字小向字正寿寺62-1 三光寺内
   なんぶ のぶなお
 南部 信直
天文15年(1546)~慶長4年(1599年)
南部氏26代。大膳大夫。石川高信の庶長子。
南部氏24代晴政に男子が無く、晴政の娘を正室として養嗣子となる。元亀元年(1570)、晴政に実子である晴継が誕生すると、次第に距離を置くようになるが、天正10年(1582)、晴政が病死し、晴継も間もなく暗殺されると、九戸政実との後継争いに勝利し、南部氏を継いだ。
しかしこの一件が政実の反乱を招き、強大な力を持つ政実に敵わないと悟った信直は豊臣秀吉の援軍を得てこれを鎮圧した。
その後、居城として盛岡城の築城に取掛かるが、完成を見ずして慶長4年(1599)に死去した。
戒名「常往院殿光録大夫江山心公大居士」。
向かって左側が信直の墓石、右側は後室・慈照院の墓石。

現在、一般公開は行っていない。
所在地:青森県三戸郡南部町大字小向字正寿寺62-1 三光寺内
   にかほ たかのぶ(きよしげ)
 仁賀保 挙誠
永禄3年(1560)~寛永元年(1624年)
兵庫頭・兵庫助。光誠。赤尾津道俊の二男。
仁賀保氏は由利十二頭の一人に数えられ、その勢力は矢島氏と並ぶ強大なものであった。しかし仁賀保氏の当主は4代続けて矢島氏に敗死させられており、挙誠は天正15年(1587)に赤尾津氏より仁賀保氏へ入嗣した。
天正16年(1588)に矢島満安を西馬音内城へ敗走させ、これを滅亡させた後、天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥羽仕置により3,700石を所領安堵された。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に置いては徳川方に組し、慶長7年(1602)に常陸国武田に5,000石で転封され、さらに元和9年(1623)には旧領の仁賀保に1万石を加増された。
仁賀保に戻った翌年の寛永元年(1624)に死去。その跡は長男・蔵人良俊が7,000石、二男・誠政が2,000石、三男・誠次が1,000石をそれぞれ分知された。
所在地:秋田県にかほ市院内城前75 禅林寺内
   のべさわ あきまさ
 野辺沢 光昌
?~?
又五郎。康満。遠江守。宮内少輔。満延の嫡子。
最上義光の娘である松尾姫を娶る。
慶長14年(1609)、義光の跡を継いで2代藩主となった家親の命を受け、家親の実弟である清水義親が立て籠もる清水城を襲撃し、義親を自害させている。
元和8年(1622)、主家・最上氏の改易に伴い野辺沢氏も没落し、肥後国加藤氏に預けられた。
所在地:山形県尾花沢市大字延沢925-1 龍護寺内
   のべさわ みつしげ
 野辺沢 満重
?~?
薩摩守。野辺沢城主。延沢氏は天童八楯の一人として天童氏に従っていた。
天文16年(1547)に野辺沢城を築いて居城としている。
伝承では子が授からなかった満重は願掛けをし、その結果、天人清水に現れた天女の羽衣を隠して妻としたという天人女房譚が残る。その後、天女との間に子を授かったが、満重の留守中に隠された羽衣を見つけた天女は天へ帰り、残された手紙に「天人清水のあたりに城を建てよ。資材は天より送る」と記されていたという。こうして築かれた野辺沢城は敵が近付くと霧が立ち込め姿を隠したため霧山城と呼ばれるようになったとされる。
所在地:山形県尾花沢市六沢741-3 圓昌寺内
   のべさわ みつのぶ
 野辺沢 満延
天文13年(1544)~天正19年(1591)
月若丸。能登守。満重の子。
満延は「天童八楯」として天童氏に従い、最上義光と敵対していた。満延がいる限り天童氏を破れないと見た義光は、満延の嫡子・又五郎に自らの娘を嫁がせ、満延を引抜くことに成功した。こうして天童氏を滅ぼすと2万石の知行を賜った。天正18年(1590)、義光に従って上洛した際に病に倒れ、翌天正19年(1591)に病死した。

満延は剛力を持って知られ、その力を試そうとした義光が力自慢の家臣数人を庭に控えさせ、参上した満延に飛び掛らせた。満延はこれらの者を次々に投げ飛ばし、驚いた義光が逃げようとして太さ2尺ほどの桜の木しがみ付いた。満延は義光にに掴みかかり、結果的に桜の木は義光ごと引き倒されたという。
所在地:山形県尾花沢市大字延沢925-1 龍護寺内
 ■ は行
   ばいこうひ
 梅香姫
大永2年(1522)?~天文17年(1548)

 
 左:梅香姫の墓
 右:大崎義宣の供養碑
大崎氏10代高兼の娘。大崎義宣の妻。
絶世の美女と謳われ、伊達稙宗が大崎氏に養嗣子として送り込んだ小僧丸の妻となった。
天文17年(1548)、台風により倒壊した家屋の下敷きとなって死去した。
所在地:宮城県大崎市古川小野字西舘17 梅香院内
   はせくら つねなが
 支倉 常長
元亀2年(1571)~元和8年(1622年)
與市。長常。六右衛門。
伊達氏家臣・山口常成の子として生まれ、伯父である支倉時正の養子となった。
慶長18年(1613)、伊達政宗の命を受け、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に、自らを副使として180余人の慶長遣欧使節を率いて太平洋・大西洋を横断し、ヨーロッパへと渡った。慶長20年(1615)、イスパニア王国の首都・マドリードにて国王であるフェリペ3世に拝謁し、キリスト教の洗礼を受けた。次いでローマに赴き、教皇・パウルス5世に謁見してローマ市民権を与えられ、貴族に列せられるなどの歓迎を受けた。
しかし、その頃日本ではキリスト教の弾圧や鎖国への流れに向かっており、その事実がヨーロッパ側にも伝わっていたこともあって、主たる目的である通商の実現には至らず、元和6年(1620)に帰国した。その2年後、失意のうちに死去した。
所在地:宮城県仙台市青葉区青葉町3-1 光明寺内
   ほしゅんいん
 保春院
天文17年(1548)~元和9年(1623)


 左:伊達宗清の供養碑
 右:保春院の墓
義姫(義子)。
山形城主・最上義守の娘として生まれ、永禄7年(1564)頃に米沢城主・伊達輝宗に嫁いだ。輝宗との間には嫡子・政宗の他、二男・小次郎と二人の娘(夭折)を生んでいる。
天正13年(1585)、輝宗が殺害されると、家督を継いでいた政宗と次第に対立したとされ、天正18年(1590)に政宗によって小次郎が殺害された後、文禄3年(1594)に米沢を出奔し、山形城の兄・最上義光の下へ逃れた。
元和8年(1622)、最上氏が改易になると、政宗を頼って仙台城へ招かれ、翌・元和9年(1623)に死去した。
遺骸は輝宗の牌寺である覚範寺に葬られ、その後、保春院を開基して牌寺とした。
所在地:宮城県仙台市青葉区北山1丁目12-7 覚範寺内
   ほんだ まさずみ
 本多 正純
永禄8年(1565)~寛永14年(1637)
上野介。本多正信の嫡子。
本多正純は徳川家康の側近として信任が厚く、老中として権勢を振るった。家康死後の寛永元年(1624)、2代将軍秀忠暗殺未遂の嫌疑を受け、正純・正勝父子は出羽国に配流されて佐竹義宣に預かりの身になった。
寛永14年(1637)3月10日、幽閉先の横手で死去。享年73歳。
嫡子である正勝は父に先立ち、寛永7年(1630)に死去している。

所在地:秋田県横手市城南町
 ■ ま行
   まえだ としさだ
 
前田 利貞
?~慶長17年(1612)か
宗兵衛・慶次郎・利益・利太・利大・利卓・利治・穀蔵院飄戸斎。
前田利久の養子。実父は滝川一益、益氏など諸説ある。
尾張国荒子城主であった前田利久の養子であったが、織田信長の命により前田氏の名跡は利久の弟・利家が継ぐこととなり、荒子城を明渡して利家に仕えた。
天正18年(1590)頃に利家の下を出奔、後に上杉景勝に仕えた。景勝の下では直江兼続の与力として活躍し、慶長5年(1600)の長谷堂城合戦においては殿を務めるなど武功を立てた。
戦後、上杉氏が減封となり、米沢30万石に転封されるとこれに従い、米沢郊外の堂森に庵を設け隠棲した。
慶長17年(1612)に死去したと伝わり、遺骸は一花院に葬られたとされるが後に廃寺となり、墓所は不明である。
昭和55年(1980)、堂森の善光寺に供養塔が祀られている。
「天下一の傾奇者」として奇行を欲しいままにしたとされるが、その多くは謎に包まれている。
所在地:山形県米沢市万世町堂森山下375 善光寺内
   もがみ いえちか
 
最上 家親
天正10年(1582)~元和3年(1617)
最上氏12代。最上義光の二男。
当初は義親と名乗っていたが、文禄3年(1594)に徳川家康の近侍として仕え、家康の偏偉を受け家親と称した。
慶長19年(1614)に父の義光が没したが、兄である義康は既に暗殺されており、そのため家督を継いで山形藩2代藩主となった。
元和3年(1617)、山形城で36歳の若さで急死した。


所在地:山形県山形市鉄砲町2丁目5-7 光禅寺内
   もがみ よしあき
 
最上 義光
天文15年(1546)~慶長19年(1614)
最上氏11代。羽州探題。出羽国山形藩初代藩主。
最上義守の嫡子として生まれる。義守の跡を継ぐと、最上氏一族の反勢力を攻撃・調略して収拾を図り、対外的には北方の小野寺氏や庄内方面の大宝寺氏と争う事により版図を広げた。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し本領を安堵されたが、後に徳川家康に接近した。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では徳川方に付いたため上杉氏の攻撃を受けたがこれを撃退し、戦後に57万石に加増された。
慶長19年(1614)、山形城にて死去。戒名「光禅寺殿玉山白公大居士」。
所在地:山形県山形市鉄砲町2丁目5-7 光禅寺内
   もがみ よしとし
 
最上 義俊
慶長10年(1605)~寛永8年(1632)
最上氏13代。山形藩3代藩主。最上家親の嫡子。
元和3年(1617)、父である家親が急死したため家督を継いだ。しかし若年であった義俊に対し、一部の家臣らが義俊の叔父である山野辺義忠を藩主に推す動きを見せるなどして家中は二分した。
当初幕府はこれを仲介しようとしたが、結果的に両者相容れる事は無く、元和8年(1622)に最上氏は改易された。
義俊は近江国に1万石を与えられたが、寛永8年(1631)に江戸屋敷にて死去。

所在地:山形県山形市鉄砲町2丁目5-7 光禅寺内
   もがみ よしはる
 
最上 義春
?~文明6年(1474)
最上氏5代。右京大夫。
4代満家の二男であったが、兄である頼宗が若くして亡くなったため、満家の跡を継いだ(頼宗を5代と数える系図もある)。
文明6年(1474)死去。跡を継いだ弟の義秋は龍門寺を創建し、義春の菩提寺として葬った。後に義光の時代になって寺が現在の地に移されたが、それに伴って改葬されたかは不明。現在の五輪塔は龍門寺13世の仁室文尭和尚が建立したものである。

所在地:山形県山形市北山形2丁目3-7 龍門寺内
   もがみ よしもり
 
最上 義守
大永元年(1521)~天正18年(1590)
最上氏10代。修理大夫・右京大夫。
中野義清の子。最上氏9代義定が嗣子の無いまま没したため、最上一族であった中野氏から義守が養子に迎えられ、家督を継いだ。
当時、最上氏は伊達氏に従属していたが、天文11年(1542)、天文の乱が発生すると義守は稙宗側に付き、長井荘を占領して独立した。
天正18年(1590)に没すると龍門寺に葬られ、仁室文尭和尚が再建した五輪塔が5代義春の墓所の隣に祀られている。
所在地:山形県山形市北山形2丁目3-7 龍門寺内
   もにわ よしもと
 
茂庭 良元
天正3年(1575)~寛文2年(1663)
伊達政宗の重臣であった茂庭綱元の三男。
松山茂庭氏の墓所は曹洞宗龍門山石雲寺に祀られ、特に初代良元、2代定元、3代姓元の3代の廟所は御霊屋が建立されている。
建立時期は姓元の三回忌である宝永5年(1708)とされる。
素木造、方三間、宝形造、茅葺で、中央に両折桟唐戸で両脇間に連子窓を設け、前面には一間分の向拝を持つ。軸部はすべて八角形に面取りされている。全般的に質素ながら雅趣に富んだ霊屋建築である。
室内は鶯張の床板敷で正面奥に段を設け、壇上には良元の祖父である良直、父である綱元、良元、定元、升元(姓元の二男)らと綱元の妻、良元の妻、定元の妻ら8名の彩色座像が祀られている。さらにその奥には伊達、茂庭両家代々の位牌が安置されている。
所在地:宮城県大崎市松山千石字大欅91 石雲寺内
 ■ や行
   やえがし よしざね
 八重樫 義実
?~慶長6年(1601)
源三。和賀氏家臣。
慶長5年(1600)、和賀忠親が旧臣を率いて一揆を蜂起し、南部領を攻撃した際、これに従っている。
忠親が国分寺にて自害(殺害されたともいう)した際、他の家臣6人らと共に殉死(殺害)したとされる。主従8人は国分尼寺に葬られ、享保5年(1720)、忠親の曾孫である直義の手によって墓石が建立された。現在の墓石は後年に建て直されたもので、忠親の五輪塔は昭和12年(1937)に、主従の五輪塔が昭和59年(1984)に建立されたものである。
所在地:宮城県仙台市若林区白萩町33-26
   やぎはし たけしげ
 八木橋 武茂
慶長10年(1605)~寛永8年(1631)
藤十郎。南部藩初代藩主利直の四男・南部利康の家臣。
八木橋孫左衛門茂吉の長男。
寛永8年(1631)、利康の死去に伴い殉死した。
利直は武茂の殉死を賞して父の茂吉に30石を与え、弟2人に50石ずつ与えた。後に弟両名が死去するに伴い、茂吉に旧知行と合わせて200石を与えている。
向かって右側の自然石の墓石が当初に建てられた物であり、左側の切石の墓石は武茂の末弟である茂右衛門茂喬が寛延4年(1751)に聖寿寺13世大?宗碩の撰文によって建てられた物である。
戒名「忠岳宗順禅定門」。

所在地:青森県三戸郡南部町大字小向字正寿寺62-1 三光寺内
   やくない さだふゆ
 八口内 貞冬
?~文禄2年(1593)
八口内城主。尾張守。
八口内氏は平将門の後裔ともいわれ、墓碑に刻まれた年号から推察すると永和3年(1377)以前から八口内地域に居住していたと思われる。
戦国期には小野寺氏に属し、居城の八口内城は対最上氏の最前線の拠点となった。
文禄2年(1593)8月、最上勢が小野寺領に侵攻すると、貞冬は少ない手勢を率い、有屋峠にて最上勢を迎え撃った。しかし攻手の鮭延秀綱に敗れ討死し、八口内城も落城した。
現在、役内集落に貞冬の物と伝わる墓碑が残る。周囲には従者の物と伝わる墓石も残っている。
所在地:秋田県湯沢市秋ノ宮新屋敷
   やしま みつやす
 矢島 満安
天文19年(1550)~天正16年(1588)


大井五郎。由利十二頭の一人・矢島氏最後の当主。
妻は西馬音内城主・小野寺茂道の娘。剛勇をもって謳われ、
「身の丈6尺5寸(約2m)、臍より胸熊の如く成る毛逆さに生え、太刀4尺8寸(約1.5m)、三度の食は米3升ずつ一度に食し、鮭の丸焼き一尾を頭から平らげ、酒は飯椀にて七度まで飲む」と言われた偉丈夫。
矢島氏は同じ由利十二頭の一人・仁賀保氏と対立しており、それにより最終的には由利十二頭のほとんどが最上義光に属したのに対し、満安は小野寺氏に付いた。これにより矢島氏は孤立することとなった。
満安は持前の武勇を持ってして戦いを優位に進めたが、ついに籠っていた荒倉館を追われた。そこで満安は舅・小野寺茂道を頼り、西馬音内城に逃れた。
しかし、この一件が小野寺氏総領である横手城主・小野寺義道にあらぬ疑いを受け、天正16年(1588)、ついに義道の弟である大森城主・小野寺康道らの軍勢が西馬音内城に差し向けられた。茂道はこれを迎え討とうとしたが、舅の苦衷を察した満安は身の潔白を証明すべく西馬音内城にて自刃して果てた。

【画像上】由利本荘市矢島町の高建寺に祀られている墓
【画像下】雄勝郡羽後町の西馬音内城西側に祀られている石碑
所在地:秋田県由利本荘市矢島町立石字上野61 高建寺内
秋田県雄勝郡羽後町西馬音内堀回字上石地蔵
   やなぎだ みちさだ
 柳田 道定
?~慶長5年(1600)
治兵衛慰。柳田城主。小野寺氏家臣。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の際、徳川家康に味方した最上義光は小野寺領に侵攻した。
道定の居城であった柳田城は最上勢2万に攻められた。道定は子息2人を三輪村杉ノ宮の吉祥院に預け、僅か500人で最上勢を迎え撃ったが多勢に無勢、柳田城は落城し、城主・道定以下ことごとく討死した。
所在地:秋田県湯沢市柳田
   やまだ きろく
 山田 喜六
?~天正17年(1589)
山田館館主。安東氏家臣。
豊川村山田館の山田喜六は、主家である安東氏のために浦城の三浦氏の下へ駆けつけていた。しかし天正12年(1584)8月12日、浦城から岐路の途中、小今戸の地において山田館が炎上しているのが見えた。その時、初めて喜六は欺かれた事を知り、その場で自害して果てたという。
以後、旧臣の子孫が慰霊し、毎年墓参りを行っていたが、明治時代に入ってそれも絶え、墓所の場所も不明となった。それを農聖と呼ばれた石川理紀之助が現地の古老との会話により場所を特定し、明治43年(1910)8月、祖霊講がこの地に墓碑を建立した。
所在地:秋田県南秋田郡井川町今戸字小今戸
   やんべ かわちのかみ
 山家 河内守
?~慶長19年(1614)
実名不詳。最上氏家臣。
慶長19年(1614)、最上義光が死去すると、後を追って殉死した。
所在地:山形県山形市鉄砲町2丁目5-7 光禅寺内
   ゆり まさはる
 由利 政春
正嘉3年(1259)~正中元年(1324)
仲八郎。由利政重の子。西目館館主。
由利氏は13世紀初め頃より由利地方一帯を治めていた。
正和元年(1312)、西目館は仁賀保院内の栗山館館主・鳥海弥三郎の攻撃を受けた。この結果、西目館は落城し政春は鳴沢館に逃れ、その後、正和4年(1315)に根代館を築いて移った。正中元年(1324)、再び鳥海氏の攻撃を受け、根代館は落城した。
政春は、家老である村上帯刀に2人の子息を託し、由利氏の守護刀を預けて再興を願い自害した。
後世、土中に埋もれていた墓碑が掘り起こされ、萱葺堂の中で八幡祠として祀られていたが、昭和14年(1939)に整備され現在に至っている。
所在地:秋田県由利本荘市由利町奉行免
   よしえ むねのぶ
 吉江 宗信
永正2年(1505)~天正10年(1582)
常陸入道宗闇。吉江景宗の子。越後国の国人。
上杉謙信に従い、その死後は景勝に仕えた。
天正9年(1581)、越中国の魚津城で織田信長軍の柴田勝家の大軍と戦い、宗信以下一族5名が討死した。
所在地:山形県米沢市林泉寺1丁目2-3 林泉寺内
 ■ ら行
   るす まさかげ
 留守 政景
天文18年(1549)~慶長12年(1607)


六郎。上野介。雪斎。伊達晴宗の三男。
永禄10年(1567)に留守顕宗の養子となり、留守氏18代を継いだ。兄・輝宗や甥・政宗を補佐し、伊達氏の勢力拡大に尽力した。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置において、小田原合戦に参陣しなかった事により所領没収となると、以降は伊達氏に従い、文禄元年(1593)には伊達氏一門に復帰した。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において、東軍に与した最上義光は上杉景勝の攻撃を受けた。政宗は政景を伊達軍の総大将に任じ、3,000の兵を与えて最上勢の救援に赴かせたが、結果的に上杉勢と交戦には至らず山形城の東方に布陣して傍観するに至っている。
慶長9年(1604)、一関に2万石を与えられ、伊達姓を名乗る事を許された。慶長12年(1607)に死去するが、長男の宗利は後に金ヶ崎城主となり、最終的に寛永6年(1629)に水沢城主となると「水沢伊達氏」とも称され、明治維新まで存続した。

戒名「大安寺殿高嶽玄登大居士」。
所在地:岩手県一関市字機織山
   ろくごう まさのり
 六郷 政乗
永禄10年(1567)~寛永11年(1634)
兵庫頭。長五郎。本荘藩初代藩主。
六郷氏は横手城主・小野寺氏の配下に属していたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐にも参陣し、本領4,500石を安堵された。その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては徳川方に属して小野寺義道と戦い、その功により常陸国新治郡府中に1万石で加増・転封された。慶長19年(1614)の大坂冬の陣にも参加し、元和9年(1623)に出羽国の最上氏が改易されると、最上領の旧領の一部である出羽国本荘に2万石で封じられ、本荘藩初代藩主となった。
寛永11年(1634)、68歳にて死去。永泉寺に葬られたが、現在は墓石である五輪塔が11代藩主・政鑑と一緒に祀られている。
所在地:秋田県由利本荘市給人町44 永泉寺内
 ■ わ行
   わが ただちか
 和賀 忠親
天正4年(1575)~慶長6年(1601)
又四郎。主馬介。和賀義忠の子。
和賀氏は天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原合戦において参陣せず、奥羽仕置により改易となった。それを不服とした父・義忠は旧臣を率いて一揆を起こし、かつての居城であった二子城を占拠したが、平定軍に敗れた。
その後、忠親は伊達政宗を頼っていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の折、政宗の援助を受けて旧領回復のために南部領に侵攻した。しかし頑強な南部勢の抵抗もあり、結果的に忠親は敗れ、伊達領に逃込んだ。ここでしばらく政宗に匿われていたが、徳川幕府に証人として上京を要求され、国分寺にて自害したとも政宗に殺害されたともいう。その死においては7人家臣が殉死(殺害)した。
主従8人は国分尼寺に葬られ、享保5年(1720)、曾孫である直義の手によって墓石が建立された。現在の墓石は後年に建て直されたもので、忠親の五輪塔は昭和12年(1937)に、主従の五輪塔が昭和59年(1984)に建立されたものである。
所在地:宮城県仙台市若林区白萩町33-26