あこうづじょう
赤尾津城
赤尾津城 本丸跡石碑  訪問年月日  2003年7月20日 / 2006年9月23日
 別称  天鷺城・高城・高館
 所在地  秋田県由利本荘市岩城下蛇田
 創築者  −
 主要城主  赤尾津氏・楯岡氏
 築城年  ?
 廃城年  慶長17年(1612)?
 様式  山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  
 設置・復原物  石碑
 文化財指定  −
 ■ 沿革
−天鷺城と呼ばれた時代−
赤尾津城は高城山に存在し、由利十二頭の一人に数えられる赤尾津氏の居城である。
伝説ではかつて高城山は天鷺山と、赤尾津城は天鷺城と呼ばれ、天鷺速男(あまさぎはやお)という豪族が居城としていたが、9世紀頃に坂上田村麻呂によって滅ぼされたといわれる。

文治元年(1185)、由利八郎維友は上直根の天神山を拠点とする真坂正覚次郎に襲撃されて、天鷺城に逃れる事になった。そこで維友は平泉の藤原秀衡に窮状を訴え、秀衡の子である国衡の下に属する事となる。文治3年(1187)になると、真坂正覚次郎は根代館の由利太夫維晟に滅ぼされ、維晟は一旦天鷺城に入ったが、後に再び根代館に戻ったため、天鷺城には由利弾正維知を置いた。

建久元年(1190)、由利八郎維友の子である由利維平が大河兼任によって毛左田(ももさだ)で討たれた。その跡を維平の子である由利維久が継いだが、建保元年(1213)の和田合戦において謀反の疑いを受け、所領没収となった。
その後、正中元年(1324)に根代館の由利氏が栗山館の鳥海弥三郎宗盛に滅ぼされ、天鷺城に拠っていた日向入道雪海と嫡子長範丸は嘉暦元年(1326)、由利氏残党狩りを企てた鳥海弥三郎宗盛に追われた。

−赤尾津氏の支配−
しかし維久の曾孫である維貫は信濃国に逃れており、暦応2年(1339)、小笠原甲斐守朝保・小笠原大井五郎光重・小笠原伯耆守光貞らを伴って由利郡に入部した。そのうちの小笠原伯耆守光貞が天鷺城に入り、赤尾津氏を名乗った。この頃より赤尾津城と呼ばれるようになったものと思われる。

天文元年(1532)、由利郡へ伸張を図った大曲城の前田又左衛門道信は赤尾津・羽川氏らと戦ったが、流矢に当たって討死した。前田氏はやがて戸沢氏の支援を受け、元亀3年(1572)に赤尾津左衛門を、天正2年(1574)には羽川二郎を討ち取った。そして天正7年(1579)、今度は逆に赤尾津二郎・羽川金剛丸らが由利郡の打越・岩谷・石沢・潟保ら諸氏と共に大曲城を攻撃した。この時に前田氏の当主である前田薩摩守は上洛中であり、弟の大曲五郎は討死、大曲城を落城させた。

天正16年(1588)頃、赤尾津氏の二男である赤尾津九郎は羽川新館の羽川小太郎義稙を欺いて羽川新館を奪い、羽川主膳正九郎を名乗った。また同年、由利十二頭の諸氏は、同じく十二頭の一人である矢島城主・矢島満安を攻め、これを西馬音内城に追いやる事に成功している。

慶長5年(1600)、赤尾津氏は関ヶ原合戦の際において、徳川家康に味方した最上義光に従い山形まで出陣したが、無断で帰国したために所領没収となった。
その後慶長8年(1603)、由利郡は最上氏に与えられ、赤尾津城は最上氏の重臣である楯岡満茂が湯沢城から移って入城したが、慶長17年(1612)に本荘城へ居城を移して赤尾津城は廃城になったものと思われる。


 ■ 構成
標高170mの高城山の尾根部に存在する。頂部に本丸が位置し、その周りに二ノ丸・三ノ丸を配している。


 ■ 現況
現在本丸跡には展望台が設けられ、車道が整備されている。
三ノ丸は遊園地などになっている。

■ 本丸跡
高城山の頂部に位置する。
■ 本丸跡
駐車場になっており、展望台も設けられ見晴らしは良い。
■ 登道
二ノ丸跡より本丸へ至る道である。
■ 二ノ丸跡
本丸の下に位置する。
■ 三ノ丸跡
「高城歴史動植物展示館」という天守閣風の建造物が建てられている。
■ 三ノ丸跡
二段に別れて城域では最も広い。
スーパースライダーが設置されているが近年使用されていないようだ…
■ 空堀跡
渓谷を利用しているものと思われる。