■ 沿革
浅舞城は小野寺輝道の子である小野寺左京進光道(友光)が天正年間(1573〜91)に築城した。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による仙北地方の検地の際に浅舞城下において、検地に反対して一揆が起こり、光道はこれに敗れて自害したとされる。その後浅舞の地は太閤蔵入地となり、菅蔵人秀磐が城代となった。
佐竹氏が秋田に入部した際には茂木監物が浅舞城を受け取り、元和8年(1622)に破却された。その後、跡地には郡奉行所が置かれた。
ちなみに「奥羽永慶軍記」に浅舞刑部の名が見えるが、関係は不明である。
■ 構成
浅舞城は絵図によると東西120m×南北120mの規模であったとされ、堀跡が認められる。
沼地や水路が多く見られ、これらにより水城のような性格を持った城であったと推測される。
■ 現況
現在は宅地化され、殆ど遺構は残っていない。
しかし琵琶沼を中心とした沼地や用水路が城跡に残り、「大館」「小館」「寺館」「寄館」「東西宿館」「堀の内」等の地名も残っていて往時の構成を窺わせている。
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■ 浅舞城 標柱
現在公民館の建っているところに標柱が設置されている。 |
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■ 標柱前道路
宅地化されて全く遺構が判明しない。 |
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■ 公民館裏手
水田が広がる。こちらも遺構は不明。 |
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■ 公園
至る所水路が引かれ、かつて水堀であった事を窺わせる。 |
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■ 大ケヤキ
推定樹齢500年以上のケヤキ。幹回り8.3m、樹高35m、枝張り30mといった大きさである。 |
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■ 御役屋門
寛政7年(1785)、秋田六郡の一つとしてこの地に郡奉行所が置かれた。
この門は寛政11年(1793)に郡奉行の今泉三右衛門によって改築されたものという。 |
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