はちもりじょう
八森城
八森城 水堀  訪問年月日  2003年11月6日 / 2009年4月10日
 別称  矢島陣屋
 所在地  秋田県由利本荘市矢島町城内
 創築者  大井大膳大夫義久
 主要城主  大井氏
 築城年  応仁年間(1467〜69)
 廃城年  明治2年(1872)
 様式  平山城
 構成  主郭・大手門・表門
 遺構  石垣・水堀・小路
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  町指定史跡
 ■ 沿革
八森城は大井氏の始祖である大井大膳大夫義久が、応仁年間(1467〜69)に信濃国佐久郡大井郷から出羽国由利郡に入部した際に築いた。大井氏の居館は元々根城館であったため、八森城は支城の役割を果たしていたものと思われる。

天正16年(1588)に大井氏の後裔である矢島五郎満安が滅亡すると、八森城は仁賀保氏の支配下に置かれ、矢島氏旧臣である菊地長右衛門が城代となった。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の功により最上義光が由利郡の地を賜ると、慶長8年(1603)に家臣である楯岡豊前守満茂が入部することとなった。満茂は本荘城を築いて居城とし、八森城には弟である楯岡長門守満広が3,000石で城主となった。しかし、元和8年(1622)に最上氏が改易となると、満茂・満広の兄弟は上野国厩橋の酒井忠世の下へ預かりの身となった。

−江戸時代の動向−
その後、由利十二頭の一人である打越氏が矢島領を賜ったが、寛文12(1635)に打越左近光隆の嗣子である光久が死去すると、打越氏は世継がいなかったため廃絶となった。

打越氏の後は生駒壱岐守高俊が讃岐国高松より移封され、1万石で入部した。万治2年(1659)、高俊が死去すると、矢島藩は高清が跡を継いだが、高清の弟である俊明に2,000石を分地して8,000石の交代寄合となった。
明治元年(1868)、戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟に参加したが後に離脱し、新政府軍側についた。そのため矢島藩は庄内藩の攻撃を受け、当主である生駒親敬は陣屋を自焼して新庄に逃れた。その後、庄内勢は撤退したため陣屋を回復し、戦後は加増を受け1万5,200石をもって公式に矢島藩を称した。

明治2年(1869)に版籍奉還により矢島県となり、陣屋は矢島県庁となったが、明治4年(1871)の廃藩置県により矢島県は秋田県に合併され、それにより廃城になったものと思われる。


 ■ 構成
八森城は矢島盆地南西部の丘陵先端に位置し、比高約50m程度である。
北東側の先端に主郭が位置し、その南西側に水堀を隔てて二ノ郭が位置する。


 ■ 現況
現在、主郭跡は矢島小学校敷地となっており、水堀の一部が現存する。

■ 表門跡
城下町よりの入口であった。
一部石垣が現存している。
■ 城内大路跡
表門より主郭へ至る路である。
■ 楊小路跡
現在は矢島高校の敷地建設により消失している。
■ 日新堂跡
大手前に位置する藩校である。
安政元年(1854)創設。身分差別・年齢制限は無く、学費も無償であったという。
■ 主郭跡
現在は矢島小学校の敷地となっている。
■ 大手橋
■ 水堀跡
大手門前に位置する。
■ 桜小路跡
大手門正面から伸びる。
■ 柏小路跡
■ 橘小路跡
■ 桃小路跡
■ 鶴小路・亀小路跡標柱
■ 山本大路跡
■ 松小路跡
■ 竹小路跡
■ 梅小路跡
■ 民部坂
城域の北端に位置する。かつて櫻庭民部の屋敷前にあったため通称「民部坂」と呼ばれた。
近郊の農家が城内に年貢米を納める際に使用したとされる。
■ 遠望
北側より望む。