■ 沿革
八森城は大井氏の始祖である大井大膳大夫義久が、応仁年間(1467〜69)に信濃国佐久郡大井郷から出羽国由利郡に入部した際に築いた。大井氏の居館は元々根城館であったため、八森城は支城の役割を果たしていたものと思われる。
天正16年(1588)に大井氏の後裔である矢島五郎満安が滅亡すると、八森城は仁賀保氏の支配下に置かれ、矢島氏旧臣である菊地長右衛門が城代となった。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の功により最上義光が由利郡の地を賜ると、慶長8年(1603)に家臣である楯岡豊前守満茂が入部することとなった。満茂は本荘城を築いて居城とし、八森城には弟である楯岡長門守満広が3,000石で城主となった。しかし、元和8年(1622)に最上氏が改易となると、満茂・満広の兄弟は上野国厩橋の酒井忠世の下へ預かりの身となった。
−江戸時代の動向−
その後、由利十二頭の一人である打越氏が矢島領を賜ったが、寛文12(1635)に打越左近光隆の嗣子である光久が死去すると、打越氏は世継がいなかったため廃絶となった。
打越氏の後は生駒壱岐守高俊が讃岐国高松より移封され、1万石で入部した。万治2年(1659)、高俊が死去すると、矢島藩は高清が跡を継いだが、高清の弟である俊明に2,000石を分地して8,000石の交代寄合となった。
明治元年(1868)、戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟に参加したが後に離脱し、新政府軍側についた。そのため矢島藩は庄内藩の攻撃を受け、当主である生駒親敬は陣屋を自焼して新庄に逃れた。その後、庄内勢は撤退したため陣屋を回復し、戦後は加増を受け1万5,200石をもって公式に矢島藩を称した。
明治2年(1869)に版籍奉還により矢島県となり、陣屋は矢島県庁となったが、明治4年(1871)の廃藩置県により矢島県は秋田県に合併され、それにより廃城になったものと思われる。
■ 構成
八森城は矢島盆地南西部の丘陵先端に位置し、比高約50m程度である。
北東側の先端に主郭が位置し、その南西側に水堀を隔てて二ノ郭が位置する。
■ 現況
現在、主郭跡は矢島小学校敷地となっており、水堀の一部が現存する。
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■ 表門跡
城下町よりの入口であった。
一部石垣が現存している。 |
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■ 楊小路跡
現在は矢島高校の敷地建設により消失している。 |
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■ 日新堂跡
大手前に位置する藩校である。
安政元年(1854)創設。身分差別・年齢制限は無く、学費も無償であったという。
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■ 民部坂
城域の北端に位置する。かつて櫻庭民部の屋敷前にあったため通称「民部坂」と呼ばれた。
近郊の農家が城内に年貢米を納める際に使用したとされる。 |
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