■ 沿革
花岡城の創建時期は明らかではないが、比内浅利氏初代である浅利則頼が比内地方を支配するにあたり、北方の抑えとして花岡城を築いたものと思われる。
『長崎氏旧記』によると、永正17年(1520)に則頼の弟である浅利九兵衛定頼が花岡城の城代になった。定頼は770石を領したが、天正2年(1574)、山田合戦により討死し、その跡を治郎吉定友が継いだという。
定友の子である定俊は信正寺の開基となった。
慶長3年(1598)の浅利氏滅亡後、大館地方は秋田氏の直轄となり、鳥潟右京介ら数人が花岡の地に知行を賜っている。
■ 構成
大館城の北方約5kmの地にある神山台地上に位置する。
2本の浸食谷が台地上に入り込み空堀の役目を果たしていたものと思われ、それに挟まれた幅約80m〜120mの地が城域とされる。2本の浸食谷のうち、北側のものは校地及び市街地となっており形状を留めていないが、僅かに大館工業高校北側に旧状を留めている。一方、南側のものは良好に残り、幅約20〜30mで東西に約200〜300mの長さで伸びている。
深さは約5〜6m程度であるが、往時はもっと深かったものと思われる。
■ 現況
現在は秋田県立大館工業高校の校地となっており、校舎建設の際に形状が大きく変更されている。
遺構としては空堀の役目を果たしていたと思われる浸食谷の一部が残っている。
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■ 主郭跡か
現在は秋田県立大館工業高校の校地となっており、旧状を留めていない。 |
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■ 主郭跡か
一部は住宅地になっているものと思われる。 |
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■ 北側浸食谷
幅は約50m程度はあろうか。奥行も北側に数百mは伸びている。 |
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