ひらじょう
平城
平城 説明板  訪問年月日  2007年8月25日
 別称  −
 所在地  秋田県横手市平城町
 創築者  −
 主要城主  加賀美遠光・小野寺氏
 築城年  鎌倉時代初期
 廃城年  −
 様式  平城
 構成  主郭
 遺構  −
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
平城は小野寺氏が朝倉山に築いた横手城の南西約800mの地に位置し、横手城の前身であったものと思われる。築城時期は不明であるが、鎌倉時代初期より存在していた。

建久年間(1190〜1198)の頃には加賀美遠光が代官を派遣して治めさせたとされる。その後、小野寺氏の支配下に置かれ、応永年間(1394〜1427)の頃には小野寺春光、長禄3年(1459)の頃には小野寺泰道が城主であった。寛正年間(1461〜66)以後は小野寺氏の家老であった横手三郎兵衛道前が城主となり、横手義則、横手佐渡守光盛と続いた。

−平城の乱−
天文21年(1552)、平城において横手(大和田)佐渡守光盛と金沢八幡別当・金乗坊が謀反を起こした。それにより小野寺氏12代稙道は湯沢城にて自害し、その子である輝道は羽黒山に逃れ、庄内の大宝寺氏に保護された。
その後、大宝寺氏の力を借りて成長した輝道は勢力を盛り返し、3年後の弘治元年(1555)には佐渡守らを討ち、仇を取ったといわれる。

天正5年(1577)、輝道は居城を沼館城から横手城に移したと伝わるが、この頃の横手城は既に朝倉山の山城の方であったものと思われる。


 ■ 構成
平城は連郭式の平城(ひらじろ)であり、城域は北側を横手側、南側を小刀堰に挟まれた70,000uの規模であったとされる。


 ■ 現況
昭和初期からの急速な市街地化により遺構はほとんど消滅しており、現在墓地となっている部分が主郭部分であったものと思われる。

■ 主郭跡か
現在は墓地となっている。
■ 城域
現在、周辺は住宅地となっている。
■ 主郭跡
■ 主郭跡