ひやまじょう
檜山城
檜山城 本丸跡  訪問年月日  2003年8月16日 / 2008年4月20日
 別称  霧山城・堀内城
 所在地  秋田県能代市檜山字古城
 創築者  安東忠季
 主要城主  安東氏
 築城年  明応4年(1495)
 廃城年  元和6年(1620)
 様式  山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  郭・土塁・空堀
 設置・復原物  説明板・標柱
 文化財指定  国指定史跡
 ■ 沿革
檜山城は、檜山安東氏の居城である。

−檜山安東氏の成立−
津軽地方の十三湊を支配していた安東貞季の二男である鹿季は出羽湊(秋田市)に拠点を置き、湊安東氏を名乗った。一方、貞季の長男であった盛季とその子・康季は南部氏との争いに敗れ、享徳3年(1454)に渡島(北海道)の地に逃れている。
康正2年(1456)、康季の孫である政季は、湊安東氏3代惟季の招きによって男鹿の染川城に拠り、河北郡(米代川の南北に渡る地域・山本郡から深浦に至るまでの一帯)を治める葛西出羽守秀清を滅ぼして政季の所領とした。
そして明応4年(1495)、政季の子である忠季が檜山城を築いて居城とするに至り、それ以後、檜山安東氏を名乗った。

−湊・檜山の統合−
一方、湊安東氏は、天文20年(1551)に当主の堯季が後継がいないまま没した。
そこで当時の檜山安東氏当主であった愛季は、自身の母が堯季の娘であった縁もあり、自らの弟・茂季に湊安東氏を継がせて再興させた。しかしそれは湊安東氏の家臣にとっては大変不満であったらしく、間もなく湊安東氏旧臣である豊島勘十郎重村(入道休心)・下刈右京・川尻中務らが湊城にいた茂季を急襲した。驚いた茂季は檜山城の愛季に救援を求め、それに応じた愛季は軍勢を派遣し、反乱を鎮圧した。
茂季はこの一件で自信を失って豊島館に隠棲し、兄の愛季に湊氏を譲った。こうして湊・檜山安東氏は統合され、愛季は居城を檜山城から湊城に移した。

しかしこれは愛季の陰謀であったという説もあり、茂季は愛季に強引に隠棲させられたため、茂季と湊安東氏旧臣の怨恨が後に湊合戦につながったともいわれている。

−愛季の死−
かくして檜山・湊を領した愛季は、北は津軽氏・浅利氏・南部氏、南は小野寺氏・戸沢氏・由利十二頭らと争って戦国大名としての地位を確立していった。
しかし天正15年(1587)、愛季は仙北の淀川で戸沢盛安と合戦中に、かねてからの病が悪化し、ひそかに男鹿の脇本城に運ばれたが、49歳で急死した。愛季の嗣子である実季はこの時12歳であったが、父の死を隠して脇本の法蔵寺に密葬した。
愛季の死により、前湊城主茂季の子九郎左衛門道季や湊安東氏旧臣をはじめ、周辺大名は機会あらば攻め入らんと虎視眈々と機会を狙う事となった。

−湊合戦−
そしてついに天正17年(1589)、安東道季はかねてより檜山安東氏に不満を抱く湊安東氏旧臣や近隣大名の応援を得て実季に対し兵を挙げた。道季方は実季方の十倍の大軍を擁し、劣勢の実季は湊城を退き檜山城に籠もった。
すぐさま檜山城は道季方に包囲されたが、実季は150日余に及ぶ籠城の末、応戦の傍ら策略をもって由利緒豪族の援軍を得て、包囲を破って戸沢氏・小野寺氏の本拠を脅かすことに成功した。
さらに実季は返す刀をもって反撃し、湊城を奪還することに成功した。結果、道季は南部氏を頼って落ち延びていった。

−安東氏から秋田氏へ−
ちなみに愛季は晩年、安東氏が代々秋田城介を名乗っていたことに基づき、秋田氏と改めるようになった。これにより実季は秋田実季と名乗るようになる。
天正19年(1591)に、豊臣秀吉の奥羽検地によって5万2,400余石の知行が確定し、この後秋田氏は近世大名の道を進むことになった。
慶長4年(1599)、実季は湊城を本格的に改修し、戦国的な戦闘向きの城から近世的な政治・儀礼向きの城へと造り替え、居城を移した。その替わり檜山城には大高相模を代官として配置した。
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦においては安東氏は徳川方に味方し、家康の命を受け実季は山形の最上義光に属して矢島一揆の鎮圧、大森城の攻撃などを担った。

−佐竹氏の入部−
慶長7年(1602)、実季は常陸宍戸に転封となり、替わりに佐竹義宣が秋田に入部した。
城代には佐竹家家臣の小場義成が任じられたが、慶長15年(1610)には義成を大館に移し、替わりに義宣の弟である多賀谷佐兵衛宣家が檜山に1万石を受け入城した。
しかし元和6年(1620)、幕府の命により檜山城は廃城となった。


 ■ 構成
米代川の支流である檜山川南に位置する霧山に築かれた山城である。
霧山及び周囲の山麓の馬蹄形の地形を利用して築城されており、城の中核である本丸は南側の最頂部に位置し、西側に一段ずつ低くなって二ノ丸・三ノ丸と続いている。
これらは愛季・実季の時代の檜山城と思われ、それより以前は高山を一番初めに拠点とし、後の時代に中館→将軍山と遷っていったものと推察される。


 ■ 現況
現在は大館・茶臼館・国清寺跡と共に国指定史跡となっている。

■ 入口
車道が設けられている。
■ 霧山天神宮入口
車道での入口北側に位置する。
■ 登り道
車道が続くが、北側にかつての登城道が存在する。
■ 登城道
画像右に下を走る車道が見える。
■ 堀切
登城道を区切っている。三ノ丸に辿り着くまで数本の堀切が存在する。
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■ 土橋跡
堀切に設けられていた土橋。
■ 三ノ丸跡西端
登城道を登りきったところに三ノ丸が位置している。
西端には石碑と標柱が設置されている。
■ 三ノ丸跡
東側は一段低くなっている。
■ 三ノ丸跡
東側より西側を望んだところ。
■ 三ノ丸西端からの見晴らし
往時はここにも見張台があったのだろうか。
秋田三十景にも数えられる非常に良い展望である。
■ 二ノ丸跡
三ノ丸の奥に位置する。
現在は公園となっており、遊具が設置されている。
■ 本丸入口
本丸は二ノ丸奥に位置し、周囲より若干小高い。
■ 本丸跡
三ノ丸・二ノ丸奥に位置する。
■ 本丸跡
城の頂部に位置している。
■ 本丸跡謎の土台
何の跡だろう??
■ 本丸跡北東側腰郭
一段低い場所に腰郭が存在する。
■ 本丸跡南側郭
数箇所の郭が存在する。
■ 本丸跡南側切岸
画像左側が本丸跡。中央の道が奥へ続いている。
■ 本丸跡南側段差
数段の段差が存在する。
■ 枡形虎口跡
土塁が明瞭に残る。
■ 堀切跡
虎口外側には堀切が存在する。
■ 土橋跡
外側より虎口を望んだところ。
堀切を土橋で繋いでいる。
■ 将軍山土塁跡
土塁の一部に切れ目があるため、虎口であると思われる。
■ 将軍山
画像左側奥が将軍山である。
■ 将軍山段差
一部凹凸が認められる。
■ 将軍山頂部
館を築くにはかなり狭い。
■ 家臣団住居跡
将軍山下に位置している。
■ 館神堂跡
四方を土塁で囲まれている。
■ 館神堂土塁跡
北側に道が続くが、中館に続く道は西側に位置する。
■ 中館東側虎口
土塁に切れ目が存在する。
■ 中館東側腰郭跡
土塁と切岸に挟まれて細い腰郭が存在する。
■ 中館南側段差
腰郭か通路か、一段低くなっている。
■ 中館西側入口
登り道となっている。
■ 中館跡
東西に長い。
■ 中館東側虎口跡
上より望んだところ。
■ 中館西端
物見台のような土盛が存在する。
■ 中館西側枡形
かなり狭い道に枡形らしきクランクが存在する。
■ 中館〜高山間
細い道が続く。
■ 高山頂部
檜山城で最も古い部分である。
■ 高山竪堀跡
急勾配に幾つもの段差が存在する。