■ 沿革
本堂城は本堂氏の居城である。
鎌倉時代、陸奥国和賀郡を与えられた和賀忠頼の三男である忠朝が承久2年(1220)、出羽国の本堂館ノ沢の地に進出し、本堂氏と改称して以後、この地域に勢力を張った。
また、『鬼柳文書』では観応3年(正平7・1352)、和賀薩摩守基義が山本郡の安本郷・安城寺郷・雲然郷を与えられ入部したともされる。
−本堂氏の居城−
本堂氏は北方の戸沢氏、南方の小野寺氏の勢力に挟まれていたが、いずれの勢力に属する事も無く独自の勢力を保っていた。『新庄本堂系図』によると、忠朝から十数代経た義親は戸沢氏としばしば交戦したが鶯野で討死し、その跡を継いだ頼親も金沢城主であったと伝わる山本氏と戦い、野口で討死している。
また、正安2年(1300)に横手城を築いた小野寺有道の三男、道政は本堂駿河守を名乗っているが、本堂氏との関連は不明である。
当初、本堂氏は現在より東方に位置する真昼山麓の西端に位置した山城(元本堂城)を居城としていたが、天文4年(1535)に本堂伊勢守忠親が本堂城を築いて居城を移した。
忠親は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、同年の奥羽仕置に際しては上杉景勝の家臣、藤田能登守信吉の検地に協力し、「本領安堵」の朱印状を受け、8,983石の所領を得た。
−本堂氏の転封−
後に忠親の跡を継いだ本堂茂親は関ヶ原合戦において徳側方につき、慶長6年(1601)、常陸国新治郡志筑8,500石に転封となり、本堂城は廃城となった。
■ 構成
本堂城は本丸と二ノ丸からなり、本丸は東西182m×南北273mの長方形状で周囲を4〜5mの高さの土塁をめぐらせていた。本丸の外周は幅約10mの内堀で覆われ、外側には東西435m×南北405mの規模の二ノ丸を有していた。
■ 現況
県指定史跡に指定されており、内堀や土塁などの遺構が明瞭に残る。
|
|
|
■ 本丸南側内堀跡
西側より望んだところ。白い標柱が正門跡である。 |
|
■ 本丸南側内堀跡
画像左側の段差が本丸の郭跡である。 |
|
|
■ 本丸跡北東隅
土塁の他、標柱や稲荷神社、記念碑などが建てられている。 |
|
|
|
|
|
■ 本丸東側内堀跡
幅10m程の内堀跡が明瞭に残る。 |
|
■ 二ノ丸跡
本丸の東側部分。二ノ丸は本丸の外周を囲むように位置していた。 |
|
■ 本丸跡北東隅
どの位置から見ても土塁が目立つ。 |
|
|
|
|
■ 本丸南西隅
本丸の南西角と内堀角が明瞭に残る。 |
|
|
|
|