いなにわじょう
稲庭城
稲庭城 模擬天守  訪問年月日  2005年6月4日 / 2006年10月21日
 別称  早坂館・鶴ヶ城・舞鶴城
 所在地  秋田県湯沢市稲庭町字古舘前
 創築者  小野寺六郎経道
 主要城主  小野寺氏
 築城年  建長年間(1249〜56)
 廃城年  文禄5年(1596)
 様式  山城
 構成  主郭・二ノ郭・腰郭
 遺構  郭・堀切・櫓台
 設置・復原物  標柱・説明板・模擬天守
 文化財指定  −
 ■ 沿革
稲庭城は、中世の秋田南部を支配した小野寺氏の居城である。

−小野寺氏黎明期の居城−
小野寺氏は下野国都賀郡小野寺郷の出自であり、その祖は藤原秀郷とされる。
小野寺氏の雄勝郡支配については諸説あるが、一説では建久元年(1190)、小野寺2代道綱の代に源頼朝より雄勝郡の地頭職を与えられ、道綱は四子である重道を雄勝郡に派遣して統治させた。重道の子である秀道は出羽国田川郡大泉荘に居住していたが、その子経道が建久年間(1249〜56)頃、雄勝郡に入り、稲庭城を築いて本拠地としたとされる。

−小野寺氏の隆盛−
経道には3人の子がおり、嫡子である忠道には稲庭城で家督を継がせ、次子である道直を西馬音内城に、三子、道定を湯沢城に配置してそれぞれ支配を強化させた。そして忠道の子である道有の代には「雄勝・平鹿・仙北三郡の庄主」と称されるまで支配範囲が拡がったという。
こうして小野寺氏の勢力拡大に従って、次第に支配の拠点を平野部の平鹿地方へ移す必要性が出てきた。そのため正安2年(1300)、道有は平鹿郡の沼館城に重臣落合氏を配置して支配し、その後の16世紀前半頃に小野寺氏12代稙道が居城を沼館城に移し、稲庭城は稙道の弟である晴道が城主となった。
さらにその後、小野寺氏は居城を横手城に移したが、稲庭城は小野寺氏の有力な城として存在し続けた。

−最上氏との確執−
天正18年(1590)、豊臣秀吉によって奥羽仕置による検地が行われたが、小野寺14代義道の上洛中に仙北地方で一揆が起こった。その咎により小野寺氏は所領を従来の3分の2に減らされ、残りの3分の1は蔵入地となり、最上義光が代官に任じられた。そのため文禄4年(1595)、最上義光は雄勝郡の領有を主張し、小野寺領に進攻して湯沢城・岩崎城を落とした。
翌文禄5年(1596)、ついに稲庭城も最上氏の侵攻を受け、包囲されるに至った。城主である小野寺上総介道勝は必死に防戦したが、結果的に稲庭城は落城し、道勝は辛くも落ち延びた。
そしてこの後稲庭城は廃城となった。


 ■ 構成
稲庭城は雄物川の支流である皆瀬川右岸に位置す標高704mの大森山の西側尾根に築かれている。
主郭は東の最も高い場所に位置しており、東西約30m×南北約80mの広さである。
二ノ郭は主郭の西側に位置し、東西約20m×南北約80mで、南東隅には櫓台跡が残っている。二ノ郭北側に腰郭と大手口が存在し、西側に向けて蛇行した登城道となっている。


 ■ 現況
昭和63年(1988)、二ノ丸跡に天守風の三層四階建の史料館「今昔館」(現在の名称は稲庭城)が建造された。
麓から二ノ丸まではスロープカーで結ばれている。

■ 稲庭城遠望
国道398号線より望んだところ。
■ 国道398号線
恐らく旧街道だと思われる。
この画像右手が稲庭城入口。
■ 稲庭城
かつての大手口跡。
■ 大手道
つづら折状に幾重にも折れ曲がった登道である。
■ 腰郭跡
大手道途中に位置する。
■ 二ノ郭北側郭跡
二ノ郭の北側には小さな郭が無数存在する。
■ 二ノ郭北側
幾つかの段差が存在する。画像奥の一番上段が二ノ郭跡。
■ 二ノ郭跡
史料館でもある模擬天守が建てられている。ここまではスロープカーで楽に登ってくる事が出来る。
■ 二ノ郭櫓台跡
二ノ郭南側に位置する。
文禄5年(1596)、最上氏の軍勢によって稲庭城落城の際、城主である小野寺上総介道勝が奥方の身代りに植えたという「夫婦の松」がそびえ立っている。
■ 模擬天守からの眺望
櫓台跡がよく望める。
画像左手の道の奥は主郭へ至る。
■ 二ノ郭からの眺望
西側の眺望。標高が高いため、周囲の状況が良く望める。
■ 二ノ郭・主郭間空堀
二ノ郭から主郭の間に空堀跡が存在する。
現在はアスファルトの道路が架かっている。
■ 主郭入口
人一人が登るのが精一杯程度の非常に狭い道である。
■ 堀切跡
登道途中に堀切が設けられている。
これは上方から見た画像。
■ 主郭跡
大森山頂部に位置する。
現在は説明板が設置されている。
■ スロープカー乗口
国道398号線沿いの駐車場より、二ノ郭へ続くスロープカー乗場が設置されている。
冬季は閉鎖されており、料金は大人420円・小中学生210円。
これは二ノ郭模擬天守の史料館入場料も兼ねており、私のように徒歩で登ると史料館へは入れません…