■ 沿革
神宮寺館の創建時期は『月の出羽路』によると正慶年間(1332〜1333)の頃とされ、館主は小野寺信道の二男・小野寺道珍であったが、神宮寺藤七郎と称したという。
戦国期になると、大曲城主・前田薩摩守利信の弟である前田又三郎が神宮寺掃部介を名乗って館主となっている。天正10年(1582)、大曲城が由利郡の赤尾津氏・羽川氏らに攻撃され落城すると、利信は掃部介を頼って神宮寺館に落延びた。
掃部介は天正17年(1589)、安東氏の内紛である湊合戦において、戸沢氏の配下として湊安東氏勢に味方すべく出陣したが、敢え無く討死した。
■ 構成
比高約3m、東西175m×南北73mの面積である長方形状の単郭の平城である。
北西隅には土塁が、東端には一段低く腰郭状の平場が存在した。
■ 現況
現在、館跡の中心部をJR奥羽本線が横断している。
周囲は水田となっており、郭跡は休耕田となっている。
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■ 南端
北側同様に直線状であり、比高差が確認できる。 |
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■ 主郭中央部
主郭の中央部に南北に伸びる土盛が存在し、郭を東西に分断している。
水田として利用時の畦道かもしれないが、後世の改変かは不明。 |
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■ 東端腰郭跡か
主郭より一段低く平場が存在する。 |
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