かくのだてじょう
角館城
角館城 標柱  訪問年月日  2003年9月14日
 別称  古城山城・小松山城
 所在地  秋田県仙北市角館町古城山
 創築者  菅(角館)能登守利邦
 主要城主  菅氏・戸沢氏
 築城年  応永年間(1394〜1427)頃か
 廃城年  元和6年(1620)
 様式  平山城
 構成  主郭
 遺構  郭・空堀
 設置・復原物  石碑
 文化財指定  −
 ■ 沿革
角館城は戸沢氏の居城として機能していた。
創建時期に関しては諸説あり、一説には南北朝時代末期頃に戸沢氏重臣の菅能登守利邦によって築城されたといわれる。

−戸沢氏の居城として−
応永30年(1423)、菅能登守利邦は上浦郡の小野寺氏と通じて戸沢氏に対し謀叛を起こした。その結果、逆に角館城は戸沢飛騨守家盛に攻め落とされ、家盛は居城を門屋城から角館城に移した。
以後、戸沢氏は土着の豪族を次々と従えて北浦地方で勢力を増すと、平鹿郡・雄勝郡に勢力を張っていた小野寺氏との間に確執が生まれるようになった。

天文10年(1541)、小野寺氏は戸沢氏の出城である小館城を攻め、臣下につくよう要求した。戸沢道盛はこの要求を退け、近隣の楢岡氏、本堂氏、六郷氏、白岩氏らの協力を得て小野寺勢を撃退した。
道盛の子である盛安は兄・盛重の跡を継ぎ、天正15年(1584)の唐松野合戦においては小野寺氏と戸沢氏の確執を突いた安東愛季の攻撃を退けることに成功した。これにより盛安は「夜叉九郎」と呼ばれ、その武勇は近隣に鳴り響いた。

天正18年(1587)、盛安は豊臣秀吉の小田原の陣に一早く駆けつけ本領を安堵されたが、その陣中に病没した。その子・政盛は関ヶ原合戦の際に上杉氏の酒田城を攻撃し、慶長7年(1602)、常陸国茨城郡小河城に4万石で転封した。その替わりとして秋田には佐竹義宣が転封された。

−佐竹氏の城下町 角館−
秋田に佐竹氏が入部すると角館城は須田美濃守盛秀が受け取り、翌慶長8年(1603)4月、伊達政宗に会津の地を追われた義宣の弟の蘆名義広が義勝と改名して1万5千石で入城した。
その後元和6年(1620)、角館城は一国一城令により梅津半右衛門憲忠の下で破却され、城主は山麓の館に移住した。
明暦2年(1656)、蘆名氏が3代で途絶えると角館は佐竹義宣の甥である佐竹北家の義隣に支配されるところとなり、城下町が整備された。


 ■ 構成
標高166mの古城山に位置し、東西約600m×南北約100mの急峻な丘陵上にある。
城の北東側には院内川が、北西側には檜木内川が流れ、北側は両河川により守られ、南側は角館の城下町である。


 ■ 現況
現在は古城山公園として整備されているが、遺構はほとんど残っていない。
頂部までは車道(自動車通行止となっている)と遊歩道が設けられている。
■ 登り口
山道の様な道を登っていく。
■ 空堀跡
山の中腹あたりにかなり大きな空堀がある。
■ 本丸入口
頂部に本丸跡があり、入口はこれまでの登り道よりかなり広くなっている。
■ 本丸跡
かなりの広さがあり、角館の町を一望できる。