かめだじょう
亀田城
亀田陣屋  訪問年月日  2003年7月20日 / 2006年9月23日
 別称  亀田陣屋
 所在地  秋田県由利本荘市岩城亀田
 創築者  岩城修理大夫吉隆
 主要城主  岩城氏
 築城年  元和9年(1623)
 廃城年  慶応4年(1868)
 様式  平山城
 構成  主郭・大手門
 遺構  郭・土塁・堀
 設置・復原物  模擬天守・模擬城門
 文化財指定  −
 ■ 沿革
亀田城はかつての赤尾津城の麓に位置し、江戸時代において亀田藩の陣屋として活用された。

−亀田藩の成立−
元和8年(1622)、由利郡を支配していた最上氏が改易となると、由利郡は下野国宇都宮城主・本多正純の所領となった。しかし正純も翌9年(1623)に改易となると、由利郡は亀田藩・本荘藩・仁賀保藩・矢島藩に分割された。そのうち亀田には信濃国川中島より岩城修理大夫吉隆が2万石で入部した。吉隆はかつての赤尾津氏の居城・赤尾津城の麓に亀田城を築いて居城とした。

岩城氏は桓武平氏の流れを組み、陸奥国岩城郡の大名であった。佐竹氏とは姻戚関係にあり、吉隆は亀田入部後の寛永3年(1626)、嗣子のいない伯父・佐竹義宣の養嗣子となり、義隆と改名した。寛永10年(1633)、義宣が死去するとその跡を継ぎ、久保田藩2代藩主となった。
このため亀田藩は吉隆の従弟である重隆が継ぐこととなり、以上の繋がりから亀田藩は久保田藩の支藩のような立場を維持した。

−戊辰戦争−
慶応4年(1868)、戊辰戦争において亀田藩は奥羽諸藩と共に奥羽越列藩同盟に参加したが、久保田藩に従って本荘藩・矢島藩・新庄藩と共に同盟を離脱し、新政府軍側についた。
しかし庄内藩が矢島藩の生駒氏を攻撃し、ついに本荘城に迫ると亀田藩は庄内藩側に寝返り、亀田城は久保田藩の軍勢によって攻められ焼失した。


 ■ 構成
かつての赤尾津氏の居城である赤尾津城の西麓に位置する。
大手門は北側に配され、東西に伸びた大手道を東に進み、南に曲がって大手門へ到る。
内堀・土塁を配した陣屋であった。


 ■ 現況
現在、亀田城跡には「亀田城佐藤八十八美術館」や亀田小学校の敷地になっており、石垣や櫓門が設けられている。また、集落内に「天鷺城」として模擬天守が建設されている。

■ 大手道
城跡北側に配されている。
■ 大手門跡
標柱が建つ。
■ 長善館跡
大手道沿いに位置する。
■ 模擬天守
岩城歴史民俗資料館となっている。
■ 城域北側
■ 城域北側
段差は北側の土塁跡かと思われる。
グラウンドは堀跡か。
■ 亀田城跡
現在は佐藤八十八美術館の敷地となっている。
■ 模擬城門
美術館入口。
■ 主郭跡