かねざわじょう
金沢城
金沢城 本丸跡  訪問年月日  2003年5月3日 / 2007年7月16日
 別称  金沢柵
 所在地  秋田県横手市金沢
 創築者  −
 主要城主  金沢右京亮・金沢道秀・権十郎・佐竹義賢
 築城年  −
 廃城年  元和8年(1622)
 様式  山城
 構成  本丸・二ノ丸・北ノ丸・西ノ丸
 遺構  郭・堀切
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
金沢城は戦国期の城館として機能していたが、この城は古くから金沢柵の疑定地とされている。

−後三年合戦−
金沢柵は清原氏最期の地であった。清原氏の当主・清原家衡は当初、沼館柵に拠っていたが、永保3年(1083)に始まった後三年合戦の最中、金沢柵に移った。「雁行の乱れ」「鎌倉権五郎景政の矢」などのエピソードを経て、寛治元年(1087)11月14日、金沢柵は源義家の軍勢によって落ち、清原氏は滅亡するに至った。

−金沢城として−
清原氏滅亡後の金沢柵の経緯は定かではないが、長禄2年(1458)、南部氏の家臣で当時平鹿郡を支配していた金沢右京亮(久慈殿)が居城にしたとされる。しかし、後に南部氏が小野寺氏に敗れたため、文明2年(1470)にこの地を去った。
その後、小野寺惟道(輝道か)の弟である金沢孫十郎道秀を経て金沢権十郎が在城した。ちなみにこの権十郎は六郷城主・六郷政乗の弟であり、金沢氏に養子に入っている。

なお、天文年間(1532〜55)において、湯沢城で横手佐渡守(大和田光盛)と金沢八幡別当・金乗坊が謀って小野寺氏12代稙道を暗殺し、小野寺氏の実権を奪うという事件が起きている。この金乗坊は金沢氏の一族とも考えられる。

−佐竹氏の支配−
慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田に入部すると、佐竹氏家臣である佐竹義賢(東将監)・梶原美濃守政景が金沢城を受取った。城代は義賢が勤め、慶長8年(1603)に小野寺氏の旧臣が蜂起して六郷城の佐竹義重を襲撃した際、義賢は大曲城代の政景と連携して六郷城に救援に向かい、一揆勢を撃退した。
その後、元和8年(1622)に金沢城は破却された。


 ■ 構成
金沢城は奥羽山脈の西端の比高92mの丘陵上に位置する。
本丸は頂部に位置し、東西80m×南北50mの規模である。その北西に東西65m×南北33mの規模の二ノ丸を配している。本丸と二ノ丸の中間には兵糧蔵跡が位置している。
二ノ丸の北側には東西25m×南北25mの北ノ丸が、同じく南側(本丸から見て西側)には東西25m×南北68mの規模の西ノ丸(安本館)が位置している。


 ■ 現況
現在は金沢公園として整備され、二ノ丸跡に金沢八幡宮が祀られている。

■ 金沢公園入口
旧羽州街道沿いに面している。
■ 景政功名塚
後三年合戦に16歳で初陣を飾り、手柄を立てた鎌倉権五郎景政(景正)が源義家の命により敵の遺体を葬ったとされる。弔いのために杉を植え、樹齢900年の巨木となったが、昭和24年(1949)に火災のため焼失、現在は幹だけが残っている。
■ 登道
つづら折の道が続く。
■ 二ノ丸跡
現在は金澤八幡宮を中心として、兜八幡神社・兜石・兜杉などが祀られている。
■ 金沢八幡宮
寛治7年(1093)、源義家が出羽鎮護のために藤原清衡に命じて石清水八幡宮を勧請して創建した。
■ 兜石と兜八幡神社
兜石は、源義家が戦勝を記念して愛用の兜を埋め、その上に石を置いたのが始まりとされる。
その脇には兜八幡神社が祀られている。
■ 兜杉
兜石のそばに記念のため藤原清衡が植えた杉とされる。
根周7.45m、樹高約26m、樹齢900年の巨木であったが。昭和56年(1981)に失火により焼失した。
■ 北ノ丸入口
土塁が設けられているが、往時の物かは不明。
■ 北ノ丸跡
なぜか土俵が設置されている。
■ 北ノ丸堀切跡
■ 兵糧蔵跡
本丸の北西に隣接している。
現在でも焼失して炭化した米が出土するという。
■ 本丸跡入口
兵糧蔵跡より続く。
■ 本丸跡
城域の東端に位置する。
現在は広場となっている。
■ 金洗清水
本丸跡から東側の崖を下った所に位置する。
■ 西ノ丸跡入口
■ 西ノ丸跡
南北に長い。
■ 西ノ丸堀切跡
幅2〜3mの空堀で区切られている。
■ 西ノ丸跡
南端。
■ 地図
説明板より。