潟保館 標柱 |
訪問年月日 |
2010年5月8日 |
別称 |
潟府館・孔雀館
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所在地 |
秋田県由利本荘市西目町字古館 |
創築者 |
斎藤氏 |
主要城主 |
斎藤氏・潟保氏 |
築城年 |
− |
廃城年 |
文禄4年(1595) |
様式 |
山城 |
構成 |
主郭 |
遺構 |
郭・空堀・切岸 |
設置・復原物 |
標柱・石碑 |
文化財指定 |
− |
■ 沿革
潟保館は由利十二頭の一人に数えられる潟保氏の居館である。
創建時期は不明であるが、当初は潟保氏の祖である斎藤氏が潟府館と称して居館にしており、健保5年(1217)に潟保館と改称した。
応仁元年(1467)、信濃国より海野弥太郎が由利郡に入部し西目館に拠ったが、斎藤氏との間に軋轢が生じた。そこで芹田伊予守や阿部館之助らが仲介し、弥太郎が斎藤氏22代重友の養子となることにより両者は和解した。これにより斎藤氏は潟保氏と改称し、弥太郎は重光と名乗って後に治部大輔を称したという。
戦国時代には25代・重実、26代・重光、27代・重春と続くが、特に重春は紀伊守を名乗り、天正10年(1582)、横手城主である小野寺氏と由利十二頭が激突した大沢山合戦においては由利勢側として参陣、以降も由利十二頭の主要な合戦に参加し続け、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原合戦にも参陣して本領を安堵されている。
文禄4年(1595)、秀吉の破却令により他の由利十二頭らの諸城と共に廃城となると、重春は山形に流れて最上氏の録を受け、慶長5年(1600)に死去したと伝わる。
■ 構成
潟保集落の南側後背地である標高98mの丘陵上に位置する。
楕円形をしており、面積は約3haとも外周2,200mともいわれる。四方を急斜面で囲み、西側には数段の段築と空堀が設けられていた。一説には主郭・二ノ郭・出丸を配し、「孔雀館」の名のごとく鳥が翼を広げた形であったという。
■ 現況
現在、館跡は孔雀館公園として整備されており、公園化のため遺構はほとんど残っていない。
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■ 北側土塁か
一部土塁状の土盛が残るが、往時の遺構かは不明。 |
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■ 主郭
中央部で段差が設けられ南北に区切られている。構成の改変かどうかは不明。 |
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