■ 沿革
毛馬内館は「鹿角四頭」に数えられた成田氏の居館である。
−鹿角四頭・成田氏−
成田氏の出自は武蔵七党の一つに数えられた横山党で、横山経兼の弟である成任が北埼玉郡成田郷を領して成田氏を名乗った。成任の嫡孫である成田七郎助綱は文治5年(1189年)の源頼朝による奥州合戦で功を上げ、鹿角に所領を得たといわれる。
その成田氏の一族が毛馬内氏を称し、『鹿角由来集』には毛馬内備中の名が見える。
−毛馬内氏の居城へ−
天文5年(1536)、南部氏23代政康の五男である靱負秀範(信次)が2,000石を与えられ、毛馬内氏として毛馬内館に入った。これは南部氏における檜山安東氏への対抗策であり、永禄年間(1558〜70)における檜山安東氏の鹿角郡侵攻において、毛馬内館は南部氏の重要な拠点となり安東氏に対抗し続けた。
慶長12年(1607)、毛馬内権之助政次の代に、南部氏当主である利直が領内巡検の際に毛馬内館に入った。その際、信直が自ら地形を選んで南方の地にある柏崎へ館を移すよう命じ、政次は翌年柏崎館へ居館を移した。
■ 構成
毛馬内館は本館を北端に、空堀を隔てて南に前館、その南と東に郭が1ヶ所ずつ存在していた。
本館は東西320m×南北280m、前館は東西150m×南北120m、その東にある館は東西80m×南北60m、南の郭は東西40m×南北80m、さらに南端に東西20m×南北20mの小郭が存在した。
■ 現況
現在本館には市営野球場が建設されている。南端の小郭は稲荷神社が祀られている。
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■ 入口脇土塁跡
上記画像の脇に三段程度の段差が見られる。 |
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■ 本丸跡北側
本丸跡。北側は野球場になっている。 |
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■ 本丸跡南側
南側半分はグラウンドになっている。 |
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■ 本丸北東側土塁跡
本丸の北東側の縁に土塁跡が残る。 |
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■ 本丸東側空堀跡
上記画像の南側、本丸跡東側に幅広い空堀跡と思われる切れ込みが存在する。 |
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■ 東郭か
東の郭だろうか。それにしては狭すぎる気も・・・ |
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