ますだじょう
増田城
増田城 本丸跡  訪問年月日  2007年7月16日
 別称  土肥館・土肥城
 所在地  秋田県横手市増田町字土肥館
 創築者  小笠原義冬
 主要城主  小野寺氏・土肥氏・長瀞氏・佐竹東家・岩城氏
 築城年  貞治年間(1362〜68)か
 廃城年  元和8年(1622)
 様式  平城
 構成  主郭
 遺構  土塁
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
増田城の創建は、応永14年(1325)に源頼朝の家臣であり土肥次郎家平の子孫、朝平が築いたと伝えられるが確証はない。一説に貞治年間(1362〜68)、三又城より小笠原義冬がこの地に至り増田城を築城したともされ、こちらの説が有力である。
その際、義冬は城の土固めとして愛娘と子牛を生贄にしたという伝説が残る。

小笠原氏は光冬の代に小野寺氏との争いに敗れ、長禄2年(1458)に仙北郡の楢岡城に移った。代わりに小野寺氏の家臣である土肥頼景が川連大館の亀岡城より入城したが、後に土肥氏は次郎道近(道成)の代に最上氏の家臣となったとされる。また、天正18年(1590)には鍋倉四郎らが豊臣秀吉による太閤検地に抵抗して一揆を起こし、2,000人の農民を伴って増田城に籠もっている。

−最上氏の支配下へ−

最上氏の勢力下になった後、増田城には新たに最上氏家臣である長瀞内膳進光が入城した。
さらに慶長7年(1602)には秋田に入部した佐竹義宣の命により、今宮摂津守(一説には藤沢筑後守入道芸球とも)が城を受取り、翌8年から元和2年(1616)頃まで佐竹東家義賢が居城としたという。

その後、岩城貞隆が増田で1万石を拝領したが、間もなく岩城氏は信濃川中島へ転封となり、元和8年(1622)に増田城は破却された。


 ■ 構成
主郭は東西200m×南北300mの方形で一段高い位置にあり、周囲に土塁をめぐらせ、さらに外側にも内堀を巡らせていた。
南側の内堀は幅約10m、他の三方は6mであり、さらに外側には外堀も存在していたと思われる。


 ■ 現況
現在浦城跡は八郎潟町と五城目町の境界未定地域にまたがって存在しており、
「浦城の歴史を伝える会」によって散策コースが設けられている。

■ 東門跡
北側・東側は土塁が現存しており、東門跡部分は土塁が切れて虎口跡が残っている。
■ 東門前
現在は住宅地となっている。
■ 土塁跡
北側・東側にL字状に土塁が現存している。
■ 北門
北側の虎口跡か。
■ 主郭跡
東西200m×南北300mの規模であった。
現在は増田小学校の校地となっている。
■ 二本杉
北西端の城柵の一部と考えられえる土塁上に存在する。
かつて増田城築城の際、城主であった小笠原義冬は城が堅固になる事を祈って自分の娘と一頭の牛を生き埋めにしたという。その霊を慰めるために二本の杉を植えたといわれる。
貞治碑
大正13年(1924)、増田小学校新築の際に南の土塁より発掘された。
貞治2年(1363)6月9日、景高という人物が正寿禅尼の35日忌に際し建立したものである。
この石碑が発見された事により、二本杉の悲話が実証された。
■ 国道342号線
城域南側を走る。