みなとじょう
湊城
湊安東氏 顕彰碑  訪問年月日  2003年6月7日 / 2005年11月3日
 別称  土崎湊城
 所在地  秋田県秋田市土崎港中央三丁目
 創築者  安東成季(康季説もあり)
 主要城主  安東氏・佐竹義宣
 築城年  永享8年(1436)
 廃城年  慶長9年(1604)
 様式  平城
 構成  −
 遺構  土塁・堀跡
 設置・復原物  説明板・顕彰碑
 文化財指定  −
 ■ 沿革
安倍氏の子孫を称し、津軽の豪族であった湊安東氏が常陸国宍戸に国替されるまでの居城である。

−湊安東氏の出羽進出−
安東氏は室町時代、津軽十三湊を本拠地にして日本海上を支配していた。
応永元年(1394)、安東貞季の二男鹿季は兄の安東盛季の命を受け、兵200余騎を率いて秋田湊城主秋田城介顕任を討ち取り、湊に移り住んだといわれる。そしてこれより湊安東氏を名乗るようになる。

湊城はその後、鹿季の息子である湊安東氏2代成季によって永享8年(1436)に築城されたという。
一方、宗家である津軽十三湊の盛季とその子康季は、湊安東氏が上国安東氏と呼ばれたことに対し、下国安東氏と呼ばれた。しかし下国安東氏は嘉吉3年(1443)、南部義政に追われ渡島(北海道)の地に逃れた。その後、忠季の代に檜山に城を築いて檜山安東氏を名乗った。

−湊合戦−
後に湊家の後嗣者が絶え、檜山安東氏の愛季が安東氏を統一するに至った。天正5年(1577)、愛季は嫡子である業季を湊城主とし、自らは脇本城を居城とした。しかし業季が天正10年(1582)に死去し、さらに天正15年(1587)に愛季も世を去った。
このため、愛季の跡を継いだ愛季の二男・実季の代である天正17年(1589)に湊合戦が起き、これを何とか収めた実季は湊城に居城を移した。

−久保田城の築城−
慶長4年(1599)、実季は本格的な築城を計画し湊城の大改修を行ったが、慶長7年(1602)、常陸国宍戸へ転封を命じられた。それと入れ替わりに秋田へ転封された佐竹義宣は当初湊城に入ったが、翌年久保田城を築き居城を移したため湊城は廃城となった。


 ■ 構成
湊城は土崎駅の西方200mの所にある土崎神明社の境内と隣接の児童公園が跡地とされている。


 ■ 現況
遺構としては内堀の一部とされていた水堀が公園の東側に昭和30年代まで残っていたが、現在は宅地化によりほとんど埋め立てられてしまっており、公園内に土塁と思われる土盛が残されているのみでほとんど原型を留めていない。

平成17年に都市計画による道路拡張のため発掘調査が行われ、その結果室町時代末期から江戸時代後期にかけての遺構・遺物が発見された。

■ 主郭跡推定地
現在は公園となっている。右側の松の茂みが土塁っぽい。
■ 土塁跡か
画像でも若干盛り上がっているのが確認できる。
左奥に見える集合住宅が以前に内堀があった場所だという。
■ 内堀跡
上記画像の集合住宅の内堀跡である。
現在は埋め立てられ宅地化されている。
■ 石橋跡
以前水堀が残っていた時代にはここに石橋が架かっていたそうだ。
奥に見える緑色の屋根の建物は土崎駅。
■ 土崎神明社
ここも城の一部であったという。
■ 2005年11月3日遺跡発掘説明会
城の西側の羽州街道沿いで発掘作業が行われていた。
■ 井戸跡
最下層の室町時代の層だが、井戸枠はもっと上の比較的新しい時代の物をはめたそうだ。
■ 竈跡?
画像真中らへんに石で半円に囲まれ、赤茶に焼けた土の部分がある。
恐らく何かを高温で焼いていたのだろう。
■ 敷石跡
これも室町時代の層である。