鍋倉城跡 標柱 |
訪問年月日 |
2004年3月31日 / 2007年7月26日 |
別称 |
− |
所在地 |
秋田県横手市平鹿町下鍋倉 |
創築者 |
小野寺石見守道周 |
主要城主 |
鍋倉氏 |
築城年 |
明応年間(1492〜1501) |
廃城年 |
? |
様式 |
平城 |
構成 |
− |
遺構 |
堀 |
設置・復原物 |
標柱 |
文化財指定 |
− |
■ 沿革
鍋倉城は小野寺景道の三男である石見守道周が明応年間(1492〜1501)に築城したとされる。
天正10年(1582)、大沢山合戦において鍋倉左近の名が見え、この戦いで左近は討死している。
また、天正18年(1590)には鍋倉四郎が豊臣秀吉による太閤検地のために入部した上杉景勝・大谷吉継らに抵抗する一揆を起こしたとされる。四郎らは、2,000人の農民を伴って増田城に籠もった。鍋倉城南端部にはこの時に処刑された者を祀ったとされる「首塚」という地が存在する。
その後、文禄4年(1595)の皆瀬川合戦において鍋倉金蔵の名が見えるが、鍋倉城は文禄5年(1596)に最上氏の攻撃により落城した。それに対し慶長3年(1598)には西馬音内式部小輔・鍋倉相模らが奪還に成功している。
■ 構成
浅舞城の南1.5kmの地に存在し、現在外堀の一部と思われる幅10〜20mの底湿地がめぐっており、北側に「柵戸」、南側に「堀切」の地名が残る。
■ 現況
現在、鍋倉城跡は宅地化・水田化により殆ど遺構は失われている。
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■ 標柱周辺
周囲は住宅地となっており、遺構は殆ど残っていない。 |
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■ 水堀跡か
鍋倉城跡南側に存在する低湿地帯。
現在は水田となっているが、かつての堀跡であろうか。 |
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