■ 沿革
中野城の創建時期は明確ではないが、『長崎氏旧記』によると、永禄2年(1559)に浅利則祐の弟・民部大輔勝頼が中野城へ入城したとの記録が残っている。
当時、中野村は大館村に次ぐ規模の大きさであったという。
−浅利氏の重臣・片山氏−
永禄5年(1562)、安東氏と手を結んだ勝頼の手引きによって安東勢の攻撃を受け、則祐は長岡城で自害した。則祐の死後、勝頼は浅利氏を継いで中野城から十狐城に拠点を移し、中野の地は片山大膳が支配したと思われる。
その後、勝頼は天正10年(1582)、安東氏によって殺害された。この一件には片山駿河守なる者が安東氏に内通していたとされる。片山氏は続いて勝頼の遺児である頼平の代にも浅利氏の家老職を務めている。
慶長3年(1598)、浅利頼平が大坂にて急死した事により浅利氏が滅亡すると、比内地方は安東氏の支配下に置かれ、慶長6年(1601)には秋田実季によって片山弥伝彦四郎に中野村が与えられた。
これら大膳・駿河守・弥伝彦四郎らが別人か同一人物かは不明であるが、片山氏が浅利氏の中で最も重要な地位を占めていた。
翌・慶長7年(1602)に秋田氏が常陸国宍戸へ転封となると、片山氏はそれに従う者、残って土着する者など、それぞれに別れたとされる。
■ 構成
中野集落の南側、比高10〜18mの丘陵上に位置し、空堀で区切った3つの郭によって構成される。
T郭は北端部に位置し、東西約90m×南北約60mの面積である。西側が最も低く、中央部が一段高く、東側がさらに一段高いという3段の段築構造となっている。南側に空堀を隔ててU郭・V郭が位置しており、U郭は南東側に配され、東西約40m×南北約110mの面積でひょうたん型の構造である。南西側にはV郭が配され、東西約45m×南北約50mの面積で「殿館」と呼ばれている。
中野城の東側約300mの高台に、浸食谷を隔てて八幡館が位置している。比高約17〜24の高さで東西約240m×南北約100mの単郭の館である。
その名称からして武門信仰に関わるものと推定される。
■ 現況
現在、T郭の西側が畑地として利用されており、その他は雑木林となっている。
空堀や郭跡は比較的良好に残る。
八幡館は畑地となり、五条神社、神明社、山神社が祀られている。
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■ T郭西側
T郭では最も低く、現在は畑地となっている。 |
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■ T郭東側
T郭の中では最も高い位置にあり、現在は雑木林となっている。 |
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■ T郭〜U郭間空堀
幅、深さ共に10m以上の大規模なものである。 |
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■ U郭北側
一段低く腰郭が設けられている。画像右端は上記の空堀。 |
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■ U郭
雑木林となっており、後世手を加えられた様子はほとんど無い。 |
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■ U郭南側空堀
北側ほどでは無いが、それなりに大規模な空堀である。
この空堀により丘陵上基部と城域が分断されている。 |
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■ U郭〜V郭間空堀
幅約8m、深さ約4mの規模で他の空堀より規模は小さいが、整然としている。 |
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■ V郭南側空堀
上記画像の空堀と逆L字状となっている。 |
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■ 土橋跡か
U郭とV郭間の空堀に設けられた空堀。 |
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■ V郭
城域南西側に位置する、最も規模の小さい方形状の郭である。
「殿館(トダテ)」と呼ばれ、主郭であったと推定される。 |
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■ 八幡館北側外周
中野城の東側丘陵上に位置する比高約17m〜24mの高台である。 |
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