■ 沿革
根井館は矢島氏の重臣である根井氏の居館であった。
−大井氏の重臣・根井氏−
根井氏は信濃国佐久郡の出自であり、木曽義仲の重臣である根井行親を始祖とする。大井大膳大夫義久が応仁年間(1467〜69)に信濃国より出羽国由利郡に入部した時期と前後して、根井式部小輔も由利郡に移り、根井館を築いたものと思われる。以降、根井氏は大井氏の重臣として活躍した。
天正4年(1576)、大井氏の後裔である矢島五郎満安が仁賀保挙久と争うこととなった。挙久は矢島領に侵攻し、根井館を攻撃したが、矢島勢の反撃に遭い討死した。翌・天正5年(1577)、挙久の子である挙長は報復として矢島氏を攻撃したが、根井右兵衛正重と戦い、結果的に挙長も矢島勢に討たれている。
−根井氏の反乱−
天正16年(1588)7月、矢島満安が山形城の最上義光に招かれた際、根井正重は満安の弟である新荘城主・大井与兵衛と共に謀反を起こした。この謀反により、満安の子息が殺害されたが、これに対し満安は急ぎ引返して与兵衛を討った。この際、正重は辛くも逃れて直根の地で出家し、正重寺を開基した。
この内乱に置いて矢島氏の力は衰退に向かい、満安は同年に西馬音内城にて自害した。
矢島氏の滅亡後、根井氏は仁賀保氏に従い、後に豊臣秀吉により所領を安堵された。しかし慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に改易され、後に遠藤氏を名乗り生駒氏に仕えた。
■ 構成
矢島盆地中央の比高約30mの丘陵に位置する。
頂部に館神といわれる八幡社が祀られ、主郭はその下の郭とされ、その面積は400uである。
東北部に大小の腰郭を擁し大手門の礎石が残る。
■ 現況
現在は頂部に八幡神社が祀られている。
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■ 大手道
自然石が敷詰められているが、後世のものと思われる。 |
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■ 主郭跡 八幡神社より一段下がった郭が主郭といわれ、「御殿畑」と称される。 |
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■ 八幡神社参道
館跡北側に位置する。こちらの登道は後世の敷設と思われる。 |
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