■ 沿革
西目館は由利氏の居館であった。
正応4年(1291)、由利政重・仲八郎政春父子が由利郡に下向した。居館を構えるにあたり、祖先である由利維久がかつて住んでいた山根館近くには既に鳥海氏の居館である栗山館が位置しており、やむなく大平の御前山に入った。その後、永仁6年(1298)に西目館を築いて居館にしたとされる。
−斎藤氏から潟保氏へ−
政重は正安2年(1300)に死去し、跡を政春が継いだ。
正和元年(1312)、西目館は栗山館の鳥海弥三郎に攻められ、政春は鳴沢館に逃れた。その後、正和4年(1315)に根代館を築いて居館を移したが、正中元年(1324)に再び鳥海勢の攻撃を受け、根代館は落城した。その際、政春は家老である村上帯刀に2人の子息を託し、由利氏の守護刀を預けて再興を願い自害した。
政重の弟である刑部は落延びて鎌倉へ上り、後に最上氏に仕えて滝沢氏の祖となったという。
その後の西目館の動向は不明であるが、潟保館の斎藤氏が鳥海氏の西目進侵攻を防ぐために浜館に出城を設けたとされる。また、応仁元年(1467)に信濃国より海野弥太郎が由利郡に入部した際、潟保館に斎藤氏がいたため、一時期西目館に拠ったとされる。
■ 構成
潟保館の北西約3km程度の距離で日本海に面する丘陵上に位置する。
西側は断崖で海岸線に接し、東側はなだらかな丘腹となっている。
主郭は面積約15〜30uの平地となっており、西側に三角形状の腰郭を設け、物見台跡らしき小丘がある。
■ 現況
現在は浜館公園として整備されており、郭と思わしき段築は若干確認可能であるが、往時の現状を留めているとは言い難い。主郭には昭和42年(1967)に設置された「はまのたての址」の石碑がある。
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■ 入口
東側に位置している公園入口。往時の出入口かどうかは不明。 |
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■ 主郭入口
公園化されたときに整備されたと思わしき階段と上記の入口が残る。 |
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■ 西側腰郭
主郭西側に位置する腰郭。三角形状である。 |
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