にしもないじょう
西馬音内城
西馬音内城 遠望  訪問年月日  2006年5月6日
 別称  川内池城
 所在地  秋田県雄勝郡羽後町西馬音内堀回
 創築者  小野寺道直
 主要城主  小野寺氏
 築城年  建治3年(1277)
 廃城年  慶長5年(1600)
 様式  山城
 構成  主郭・二ノ郭・飯塚館
 遺構  郭・空堀・土塁・隅櫓台・大手門
 設置・復原物  標柱
 文化財指定  県指定史跡
 ■ 沿革
西馬音内城は、稲庭城を居城にした小野寺氏の支城である。

−由利郡への抑えの城−
鎌倉時代初期に雄勝郡に入部した小野寺経道は、稲庭城を築いて居城とした。
建治3年(1277)、経道は次子である道直に西馬音内城を築かせて西の由利郡方面の抑えとした。以後2代不詳−3代道兼−4代道位−5代道鄰−6代不詳−7代昵道−8代茂道と続く。

西馬音内城の8代城主である小野寺肥前守茂道は、小野寺氏の13代当主・輝道の長子であった。しかし庶子であったといわれ、そのため弟である義道が14代当主に就いた。茂道は義道に従って天正14年(1586)の有屋峠合戦など数々の合戦にも従軍している。
天正18年(1590)には茂道が小田原参陣にあたり、城下に役銭を賦課した資料が残っており、この頃には西馬音内城の城下町が形成されていた事が分かる。

−矢島満安の自刃−
西馬音内城の小野寺氏は矢島城の矢島氏とは友好関係にあった。
天正16年(1588)、茂道の女婿でもあった矢島五郎満安は、同じ由利十二頭の仁賀保兵庫頭挙誠に敗れ、西馬音内城に落ち延びた。しかし、この一件が小野寺氏総領である横手城主・小野寺義道にあらぬ疑いを受け、ついに義道の弟である大森城主・小野寺康道らの軍勢が差し向けられた。茂道はこれを迎え討とうとしたが、舅の苦衷を察した満安は西馬音内城にて自刃して果てた。

−最上義光の侵攻−
この様な小野寺氏の内紛に乗じ、最上義光は文禄4年(1595)に雄勝郡に侵攻した。
茂道は満安死後、含むところもあったためか義道の出兵には従わず、近隣の柳田治兵衛・松岡越前守・深堀左馬・山田高道・関口氏らと共に最上氏に降った。そのため岩崎城・湯沢城は最上氏によって落城、雄勝郡の実質的支配は最上氏に移った。
その後、小野寺氏が湯沢城を奪還すべく立ち上がると、西馬音内城は再び小野寺氏に属した。

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において、小野寺氏は西軍である上杉方に付き、最上氏と対立した。しかし西軍の敗北によって上杉氏が退却すると小野寺氏は孤立し、茂道は西馬音内城に火をかけて庄内に逃れた。
慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田に転封になると、小野寺氏は石見国津和野に配流となるが、茂道の子孫は新庄藩や久保田藩に仕えたという。


 ■ 構成
西馬音内城は、直下を雄物川の支流である西馬音内川が流れ、矢島街道と由利郡への間道である七曲越が合流する梺集落の東側に切り立つ崖上に位置する。
大手門は城の北東に位置し、そこから十三森と称する大手道を通って二ノ郭にたどり着く。面積は東西約40m×南北約150mの細長い郭となっており、北東隅には隅櫓台が配置されていた。
二ノ郭の南に一段高くなっている部分が主郭であり、面積は東西約100m×南北約50m、標高206mである。主郭の東側には空堀で区切られ土橋が設けられて、飯塚館と伝えられる郭に至る。この飯塚館方面が西馬音内城の搦手口に相当すると思われる。


 ■ 現況
現在大手口は元西小学校脇に位置し、登道は設けられているが城跡ほぼ全体が林に覆われている。

■ 大手門跡
県道57号線沿い、元西小学校脇に位置する。
■ 入口
元西小学校の校地を通り、裏手の山へ向かう。
■ 竪堀跡
十三森の手前で城にとっては北側、道路や西馬音内川に面している部分に竪堀跡が見られた。
画像では分かりにくいが丁度木が生えている部分が段々となっている。
■ 十三森入口
大手道にもなっている十三森入口。
ここを抜けると郭群に入る。
■ 堀切跡
向かって左側に堀切跡が存在する。
通路と思える位の規模である。
■ 隅櫓跡
二ノ郭北東隅に位置し、物見台の役割を果たしていた。
北の大手口や東側の斜面より侵入してくる敵を監視する格好の位置にある。
■ 土塁跡
画像奥にL字型に囲った土塁が存在する。
高さ2mはあろうか。かなりの規模である。
■ 二ノ郭跡
雑木に覆われている。
■ 主郭跡
二ノ郭跡南側に位置する。
■ 矢島五郎満安自刃の地
文禄2年(1593)、由利十二頭の一人である大井(矢島)五郎満安がこの郭で自刃したという。
■ 堀切跡
主郭南側に位置する。
見事にV字型となっている。
■ 城跡からの眺望
北側を望んだところ。西馬音内が一望出来る。
■ 西側空堀跡
城の西端である。
幅10m以上はあるかと。
■ 西側入口
郭間の空堀跡にも見える。
■ 地図