■ 沿革
沼館城は、かつての後三年の役における清原氏の本拠疑定地「沼ノ柵」と同一場所とされる。
−小野寺氏の平鹿郡進出−
正安2年(1300)、雄勝郡の稲庭城を居城としていた小野寺道有は、平鹿郡の沼館城に重臣落合氏を配置して支配させた。さらに寛正年間(1460〜66)には小野寺長道の弟である道春が沼館孫三郎を名乗って沼館城に居城したとされる。そのため、この地に置かれていた落合十郎は替わりに八柏城を与えられ八柏氏を名乗った。
その後、小野寺氏は雄勝郡から平鹿郡にかけて勢力を伸ばし、拠点を仙北平野に求める事となる。それにより、16世紀前半頃に小野寺氏12代稙道が沼館城に居城を移した。さらに稙道の子である13代輝道は天正5年(1577)、沼館城から横手城に居城を移し、天正年間(1573〜92)には稙道の長子(庶子であったという)である大築地織部秀道が沼館城代となった。
秀道は天正14年(1586)の有屋峠合戦の際に14代義道が出陣したため、その居城横手城の留守役となっている。また翌天正15年(1586)、角館城主戸沢九郎盛安が沼館城攻略のために出陣し、阿気野合戦が起こったが、秀道は家臣小清水蔵人に700人を付け、自身は1,000人を率いて後陣について激戦を展開した。
慶長5年(1600)、大森城合戦時の城代は大築地又二郎とされ、慶長6年(1601)の小野寺氏配流の際に沼館城は廃城となった。
■ 構成
沼館城の推定面積は約70,000uの規模であり、本丸・二ノ丸・三ノ丸で構成される。
本丸と二ノ丸の境には「枯れずの沼」があり、三ノ丸跡の北東部には館小路・下小路・馬場などの地名が残っている。
■ 現況
現在、本丸跡は雄勝山蔵光院となっており、二ノ丸跡には雄物川北小学校の敷地となっている。
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■ 沼館城 本丸入口
本丸跡は現在の雄勝山蔵光院の敷地になっている。
画像は山門を抜けてすぐの場所。 |
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■ 土塁跡
本丸東側土塁の外周側である。道路はかつての堀だったのだろうか。 |
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■ 二ノ丸跡
本丸北側に位置する。現在は雄物川北小学校の敷地となっている。 |
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■ 三ノ丸跡
本丸・二ノ丸北東に位置する。現在は住宅地となっている。 |
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