おおだてじょう
大館城
大館城 水堀  訪問年月日  2003年8月15日 / 2009年5月5日
 別称  桂城・鬼ヶ城
 所在地  秋田県大館市字中城
 創築者  浅利民部勝頼
 主要城主  浅利氏・南部氏・秋田氏・小場氏
 築城年  天文19年(1550)
 廃城年  明治元年(1868)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  郭・水堀・空堀・石垣・土塁
 設置・復原物  標柱・復原図
 文化財指定  −
 ■ 沿革
大館城は佐竹氏の久保田藩において、南の横手城に並ぶ北の支城であった。
『大館旧記』によると、元慶4年(880)に「大楯の城主・公家(きみけ)なる者が瞋関(いかりせき)の橘吉明を討った」とされているが、この事に関しては確証が無い。

−浅利氏による築城−
『独鈷村旧記』によると、独鈷の浅利氏初代則頼の二男である浅利民部勝頼が、天文19年(1550)に大館城を築いたとされる。後に永禄5年(1562)、勝頼は檜山安東氏と結び、扇田の長岡城に住んでいた兄・則祐を自害に追込んでいる。
天正10年(1582)、今度は勝頼が檜山城で安東愛季によって殺害され、大館地方は安東氏の支配下に置かれた。愛季は大館城に五十目兵庫秀兼・和田内膳らをを城代として置いたが、天正15年(1587)に愛季が死去すると、翌天正16年(1588)に秀兼が南部氏に内応し、大館城に南部勢である大光寺光親を引入れて和田内膳を討った。こうしてこの地は南部氏の支配下に置かれ、大館城には北信愛が城代として入った。

−安東氏対浅利氏−
天正18年(1590)、愛季の嫡子である秋田実季は、阿仁の加成播磨守・米内沢の加成左馬頭らの支援を受け大館城を奪還し、大館城には実季の弟である忠次郎実泰を入城させた。これと同時に、津軽為信の下に身を寄せていた浅利勝頼の遺児・頼平を呼び寄せ、比内に還住させている。

しかし、頼平はこのまま秋田氏の被官にあるのを良しとせず、独立の兆しを見せ始めたため、実季との間に確執が生じた。文禄2年(1593)、ついに両者は紛争に発展し、慶長元年(1596)まで争いが続いた。その最中、裁決は大坂城まで持込まれたが、慶長3年(1598)、上洛中に頼平は急死し、当主を失った浅利氏は滅亡する事となった。こうして浅利氏の悲願であった御家再興は事実上不可能となり、大館地方は秋田氏の支配下に置かれた。

−佐竹氏の支城として−
慶長7年(1602)、秋田氏は常陸国宍戸へ転封を命じられ、入れ替わりに秋田へは佐竹義宣が常陸国より入部した。義宣は北方の抑えとして小場義成を檜山城に派遣し、大館城の受取を赤坂下総守朝光に命じた。
これに対し浅利氏の旧臣達は不満を持ち、大館村の浅利伝兵衛を中心に一揆を起こした。赤坂はこの一揆の鎮圧に苦慮し、義宣は小場義成に救援を命じたが、衝突寸前に立杭村浄応寺の住職・玄性が仲介・説得し、一揆は収束された。。

慶長13年(1608)、義宣は義成に対し5,000石をもって大館城代を命じた。大館城に入城した義成は羽生縫殿之丞を奉行に任じ、大館城の改修・拡張や町割の普請を行わせた。元和元年(1615)、徳川幕府により一国一城令が出されたが、久保田藩では大館城と横手城が支城として存続を認められた。その後、義成の子・義易の代にも開墾作業を推し進め、8,000石を新たに開発し、総石高は1万3,000石まで達した。
万治元年(1658年)頃、3代義房の時、小場氏は佐竹姓を許され、佐竹西家を名乗っている。

明治元年(1868)、戊辰戦争において、大館城は盛岡藩の攻撃を受けた。楢山佐渡守隆至が率いる南部勢の勢いは凄まじく、大館城代の佐竹大和守義遵は大館城に火を掛け、焼失した。


 ■ 構成
大館城は本丸・二ノ丸・三ノ丸で構成されていた。石垣は使用しない土居造りの構造であり、石垣は僅かに大手門脇に見られる程度であった。
門は大手門・搦手・西門・上町門・穴門・東門・虎門の7つの門と、それ以外に不開門が1門が存在し、大手門は高さ約6m、幅約7mの規模であった。

本丸の規模は東西約180m×南北約90mであり、居館・大広間・対面所・大鼓間・大書院・小書院・二の間・来客の間・備米蔵・米蔵・武具蔵・馬見所・神社・作事場・厩舎・炭小屋・五重の鎌倉(櫓)などの建造物と矢場・馬場や井戸が存在していた。
二ノ丸の規模は東西約510m×南北約110mで、三ノ丸の規模は東西約150m×南北約140mであり、共に上級武士の屋敷となっていた。


 ■ 現況
現在、本丸跡は桂城公園として整備され、石垣・土塁・堀などの一部が残る。
二ノ丸・三ノ丸は市街地化されており、当時の面影は全くといって良い程残っていない。

■ 本丸大手口
桂城公園の入口ともなっている。
■ 小中門跡
本丸正面口に当たる。
水堀跡・石垣・土塁などの現存遺構が集中している。
■ 水堀跡
本丸南側の堀跡である。
■ 石垣
本丸南側の土塁端に位置する。
■ 本丸土塁跡
本丸南側、水堀の内側に位置する。
■ 本丸跡
現在は桂城公園として整備されており、往時の面影はほとんど残っていない。
■ 門跡
本丸跡の西端に標柱が建てられている。
風化が激しく、○○門跡としか読取れない。
■ 本丸北西端
画像左側の道路は国道7号線である。
当時は堀跡であったと考えられる。
■ 本丸北側堀跡
現在は住宅地となっており、道路が敷設されている。
■ 穴門跡
本丸北東側に位置する坂に存在した穴門跡。
二ノ丸跡へ続いている。
■ 穴門土塁跡
穴門周辺にも土塁が残る。大館市立武道館裏側である。
■ 二ノ丸跡
現在は大館市役所・地方裁判所となっている。