おおまがりじょう
大曲城
大曲城 土塁跡  訪問年月日  2004年8月14日 / 2007年6月2日
 別称  前田館
 所在地  秋田県大仙市大曲丸の内町
 創築者  安倍氏か
 主要城主  大曲和泉守・前田氏
 築城年  −
 廃城年  元和元年(1615)
 様式  平城
 構成  −
 遺構  土塁
 設置・復原物  −
 文化財指定  −
 ■ 沿革
大曲城の創建は明らかではないが、平安の頃安倍氏の残党が築城したという説がある。

−南部氏の支配−
南北朝時代の頃になると、三戸南部氏が山本郡(現在の大仙市・仙北市・美郷町)に進出し、長禄2年(1458年)に安東氏を破ってこの地を支配する事になる。
三戸南部氏13代守行は三男である彦四郎を金沢城に置き、彦四郎は金沢右京亮と名乗って山本郡を支配していた。また、大曲城には右京亮の家臣である米内甚五郎が大曲和泉守を名乗って居城としていた。しかし応仁2年(1468)、南部氏は小野寺氏との戦いに敗れ、右京亮は討死する事になる。その際に大曲和泉守は右京亮の若君を抱いて南部地方に逃れたという。

−前田氏の居城として−
以後の顛末は不明であるが、大曲城は明応年間(1492〜1501)頃には小野寺氏の旗下にあった前田又左衛門道信が城主となった。だが道信は天文元年(1532)、由利十二頭である赤尾津氏・羽川氏らとの合戦で討死した。
道信の嫡子である又太郎は足利義輝に仕えて京に上洛していたため、二男である又次郎が大曲城主となる。又次郎は薩摩守利信を名乗り、戸沢氏の家臣として天正7年(1579)に織田信長に鷹を献上するなどして所領を安堵された。
しかし天正10年(1582)、前田氏は仇敵である赤尾津氏・羽川氏に急襲され大曲城は落城、末弟である大曲五郎は討死した。

その後、大曲城は天正18年(1590)に豊臣秀吉の命により、戸沢35ヶ城の一つとして廃城になった。
しかし慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田入部に際して、佐竹氏の重臣である梶原美濃守が大曲城を受領し、城代として佐竹義賢が駐在したが、元和元年(1615)の一国一城令により破却された。


 ■ 構成
大曲城は丸子川と雄物川が合流する丸子橋の北岸一帯に位置していたとされるが、詳細は不明である。


 ■ 現況
現在は城跡の殆どが市街地化され、遺構を確認することは難しい。
僅かに八幡神社の参道が土塁の一部として残っている。

■ 城域
丸子川の北岸一帯が城域といわれるが、市街地化と区画整理のため遺構は全く残っていない。
■ 堀跡か
アンパスが残るが、当時の遺構を利用しているのか、後世の改変かは不明。
■ 土塁跡
城域西端に位置する八幡神社に土塁が残る。
■ 八幡神社参道
東西に50m程の長さである。
■ 石造五重塔
八幡神社参道脇に祀られている。
菅江真澄「月の出羽路」によると、寛政年間(1789〜1800)末から享和年間(1801から3)初め頃に付近の土中より掘り出されたという。
記されている年号は「元享3年(1323)7月5日」と刻まれ、「虎王丸」の名も見受けられるが、この虎王丸に関しては詳細不明である。
■ 古碑群
参道沿いに並んで祀られている。
■ 土塁遠望
南側より望んだところ。住宅の隙間に土塁が僅かに見える。
■ 堀跡
土塁の北側には掘割があったといわれる。現在は道路となっている。
■ 丸子川
城域の南側を流れる。