おおもりじょう
大森城
大森城 遠望  訪問年月日  2004年8月14日 / 2007年6月2日
 別称  岩淵城
 所在地  秋田県横手市大森町高口下水戸堤
 創築者  小野寺道高
 主要城主  小野寺氏・伊良子
 築城年  文明年間(1469〜87)
 廃城年  元和6年(1620)
 様式  山城
 構成  主郭・二ノ丸・内郭・外郭
 遺構  郭・空堀・堀切・土塁
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
文明年間(1469〜87)、横手城主である小野寺泰道の四男・小野寺長門守道高が築城し、岩淵城と称したとされる。その後、天正年間(1573〜92)初め頃に、横手城主・小野寺義道の弟である小野寺孫五郎康道(大森五郎)が入城し、大森城と称した。
康道は「大森殿」と呼ばれ、天正14年(1586)の有屋峠合戦、天正16年(1588)の蜂ノ山合戦など、小野寺氏の主要な合戦に参加して活躍している。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による太閤検地の際、検地奉行として上杉景勝が大森城に入城し、山北三郡(雄勝・平鹿・仙北の三郡)の拠点とした。その際、康道は景勝らの接待役を務めている。天正19年(1591)、上杉氏が撤退すると、康道は城主としての地位を回復した。

−大森城攻防戦−
その後、小野寺氏は蔵入地などの問題で最上氏と対立する事となる。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、小野寺氏は当初徳川方に付く姿勢を見せたものの、雄勝郡を最上氏より奪還するため、やがて上杉方に味方した。しかし関ヶ原では徳川方の圧倒的勝利に終わり、出羽国で唯一上杉方についていた小野寺氏は、最上氏を始め秋田氏・由利郡の諸豪族らに攻撃された。
同年10月、大森城は1万余の軍勢に囲まれ、康道は800人の軍勢を持ってこれに対応した。しかし天然の要害でもあった大森城に連合軍は苦戦し、持久戦に持ち込まれる事となった。
結果的に連合軍は大森城を落とすことが出来ず、ついには両者疲れ果てどちらともなく「和議」の声が出て、年内に陣を解いたとされる。

その後、関ヶ原合戦の論功行賞により小野寺氏は改易、当主であった義道は石見国津和野の坂崎出羽守氏政へ預かりの身となり、康道もこれに従ったという。
小野寺氏改易後は一時、最上氏家臣の伊良子将監の居城となったが、元和6年(1620)頃に廃城となったものと思われる。


 ■ 構成
大森城は横手盆地の中央部西端で、雄物川左岸の小さな丘陵上に位置する。
主郭は頂部に位置し、標高120m、東西130m×南北75mの規模で周囲を土塁で囲んでいた。
本丸の東側には幅約15mの帯郭を擁し、さらに東側には東西75m×南北90mの規模である二ノ丸と東西100m×南北55mの規模の外郭が位置していた。


 ■ 現況
現在大森城跡は大森公園として整備されている。

■ 大森神社入口
城域南側に位置する。かつての大手口であろうか。
■ 登城口
直進で大森神社経由して本丸へ、右手が二ノ丸への道。
■ 内館
本丸南側に位置する。
■ 二ノ丸
東西75m×南北90mの面積である。
■ 二ノ丸より本丸へ至る
■ 本丸
最高所に位置し、東西130m×南北75mの面積である。
■ 本丸
■ 本丸跡展望台
かつては周囲を土塁でめぐらせていたという。
■ 本丸よりの眺望
 大森神社
本丸西側に祀られている。
■ 遠望
■ 再現図