おしきりじょう
押切城
押切城跡  訪問年月日  2012年4月22日 / 2012年6月30日
 別称  −
 所在地  秋田県南秋田郡八郎潟町字中嶋
 創築者  三浦五郎盛季
 主要城主  三浦五郎盛季・小和田甲斐守
 築城年  慶長2年(1597)
 廃城年  −
 様式  平城
 構成  −
 遺構  −
 設置・復原物  標柱
 文化財指定  −
 ■ 沿革
押切城は浦城主・三浦兵庫守盛永の遺児である千代若(後の三浦五郎盛季)の居城であった。

−三浦氏のお家再興−
天正17年(1589)、安東氏の内紛である湊騒動において浦城城主・三浦兵庫守盛永は湊安東勢に付いたため、檜山安東勢に攻められた。その結果、浦城は落城し、盛永は自害して果てたが、盛永の遺児である千代若は家臣である三浦左衛門の手引により城から逃れ、庄内(一説には越後国)の神林常勘を頼ったとされる。
後に千代若は安東氏に赦され、父の所領である300町歩を賜り、慶長2年(1597)頃には新たに一日市の地に押切城を築いて居城にした。

−小和田甲斐守の謀反−
盛季が三浦氏を再興させると、居城である押切城には三浦左衛門を始め、小和田甲斐守、大内越前守、古井兵之介兼次など三浦氏の旧臣が続々と集まって来た。その中で小和田甲斐守は逆心を抱き、安東氏に盛季の不忠を訴えた。これを受けて慶長5年(1600)、安東実季は自らの居城である湊城へ盛季を呼出し、湊城下で討取ったという。この功により、甲斐守は盛季に替って安東氏に押切城主に任じられた。
その後、甲斐守は盛季の怨霊によって死去したとされるが、盛季の遺臣によって殺害されたと思われる。

盛季の妻・小柳姫と遺児・亀若とその妹は古井兵之介兼次の手によって落延びたが、小柳姫は心労により死去し、二人の遺児は昌東院に預けられた。兼次は黒川の地で開拓に勤しみ、後に亀若兄妹を招いた。江戸時代には三浦氏は黒川の豪農となっている。


 ■ 構成




 ■ 現況


■ 遠望
西側より望む。
■ 入口
北西端より入口が設けられているが、往時のものかは不明。
■ 主郭跡
現在は墓地・雑木林となっている。