ろくごうじょう
六郷城
六郷城跡  訪問年月日  2003年5月3日 / 2007年6月2日 / 9月11日
 別称  −
 所在地  秋田県仙北郡美里町六郷字古館
 創築者  六郷弾正道行
 主要城主  六郷氏・佐竹義重
 築城年  永禄2年(1559)
 廃城年  慶長17年(1612)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸
 遺構  郭・空堀
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
六郷城は六郷氏の居城である。
『諏訪神社縁起』によると至徳元年(1384)、鎌倉御家人であった二階堂三郎左衛門道晴が武蔵国六郷より出羽国仙北郡に入部した。その際、故郷の六郷の地を取って六郷氏を名乗ったとされる。
永禄2年(1559)、六郷弾正道行は稲荷岡の東に六郷城を築いて居城とした。

−安東氏と小野寺氏の狭間で−
戦国時代に入ると道行の跡を継いだ嫡子、六郷兵庫頭政乗が台頭し、天正16年(1588)の峰ノ山合戦において安東愛季と小野寺義道が対陣した際に両者を説得、和睦させている。また、天正18年(1590)には豊臣秀吉の太閤検地において、大谷吉継の家臣である安田上総介が六郷城に入城し、六郷氏は5,000石を安堵された。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において政乗はいち早く徳川家康に接近し、角館城主である戸沢盛安と共に横手城主の小野寺義道と戦った。その戦功により慶長7年(1602)、常陸国府中の地に1万石に加増され転封となった。
その際、六郷城は佐竹氏配下の川井伊勢守と箭田野安房守らが受け取っている。

−鬼義重の入城−
その後間もなく六郷城には佐竹義宣の父である義重が入城し、南方に睨みを効かせていた。
翌慶長8年(1603)、改易された小野寺氏の旧臣が不穏な動きを見せ、六郷城を約1,000人の軍勢で包囲した。一方、六郷城側には200人程度しかおらず、近隣の町民や農民らも加勢して籠城したが苦戦を強いられていた。そこで大曲城主である梶原美濃守政景や金沢城からの援軍もあり、結果撃退に成功した。
慶長17年(1612)、義重が死去すると城は破却され、郡奉行所が建てられた。


 ■ 構成
六郷城は北に稲荷明神、熱田大神宮を祀り、東側に坪楯街道が、南側には大曲街道が走っていた。
東側を正面として西中央に本丸、東南に二ノ丸を配していた。背後は水田で防護された平城であった。


 ■ 現況
現在は本丸跡に田岡神社が祀られ、周辺はサテライト六郷・住宅地・道路・水田などになっている。


■ 本丸入口
鳥居が設けられている。
■ 本丸跡
田岡神社境内となっている。
■ 本丸跡石碑
説明板と共に設置されている。
■ 本丸外周
本丸北側は水田となっている。
■ 内堀跡
本丸南側に標柱が設置されている。
■ 二ノ丸跡
内堀の外側に位置する。
■ 外堀跡
二ノ丸南側に標柱が設置されている。
現在はサテライト六郷の駐車場となっている。
■ 農道
六郷城跡を横断している。