■ 沿革
山内城の創建時期は明らかではない。
戦国時代には浦城に拠っていた三浦氏の支城として三浦采女正秀兼が城主であった。しかし秀兼は檜山安東氏に従い、南部氏への抑えとして和田内膳と共に大館城城代となった。
秀兼が城代として不在の間、山内城には安東教季が、次に山内右衛門尉が城主となった。
天正16年(1588)の湊合戦においては、浦城の三浦氏が湊安東氏方に加担したため、右衛門尉もそれに従った。その結果浦城とその近隣の支城は檜山安東氏方に攻められ、三浦氏方は敗れて山内城は落城した。
その後、山内城には安東愛季の末弟である季隆が居城としたが、まもなく砂沢城に移ったため山内城は廃城となった。
■ 構成
大手道は南側に位置し、大手道奥には「米洗い場」・「馬冷し場」とも呼ばれる沼地がある。その東側に主郭・二ノ郭が、西側には三ノ郭・四ノ郭が位置する。
主郭は二ノ郭北側に位置している。北端に東西12m×南北8mの土壇が存在し、櫓跡と思われる。南端には土塁が存在し、10m程度の切岸になっている。
二ノ郭は南側に3〜4の段状になっており、南端が一番広くなっている。
三ノ郭は西に向かって3〜4段の段能になっており、南側の四ノ郭とは堀切をもって分断されている。
■ 現況
現在、山内城は小倉温泉の裏手の山に位置し、南側の遺構が若干破壊されているが、北側の遺構は概ね良好に残っている。
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■ 大手橋
五城目街道沿いで富津内川に架かる橋である。ここから小倉温泉敷地を抜けて大手道に至る。 |
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■ 大手道
山内城南側から城中心部へ抜ける山道である。 |
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■ 沼地
「米洗い場」「馬冷し場」とも呼ばれていたという。
城内の主な水源となっていたものと思われる。 |
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■ 主郭跡入口
10m近くある切岸を登って主郭へ至る。 |
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■ 主郭跡
山内城中で最も奥の高所に位置している。 |
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■ 主郭跡南側土塁
入口脇に土塁が設けられている。 |
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■ 主郭跡北側櫓台跡
主郭の北側には櫓台と思われる土壇が存在する。 |
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■ 二ノ郭跡北側
南北にかけて3〜4の段差が確認できる。 |
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■ 二ノ郭跡西側土塁
二ノ郭西側、大手道側に土塁が設けられている。 |
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■ 三ノ郭跡東側
大手道方面より望んだところ。
二ノ郭同様に3〜4段に段差が認められる。 |
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■ 三ノ郭跡
三ノ郭西端。西側は切岸となっており、見晴らしが良い。 |
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■ 三ノ郭跡・四ノ郭跡間堀切
三ノ郭南側は堀切によって区切られている。 |
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■ 三ノ郭跡・四ノ郭跡間堀切
高低さ1〜2m、幅2〜3m程の空堀である。 |
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