しらはな(はっか)じょう
白華城
白華城跡 全景  訪問年月日  2005年5月28日・11月26日 / 2014年4月12日
 別称  −
 所在地  秋田県秋田市豊岩字中沢
 創築者  安東義仁
 主要城主  安東氏
 築城年  文安4年(1447)
 廃城年  慶長7年(1602)
 様式  山城
 構成  主郭・家中屋敷・馬出・馬屋・大手・搦手
 遺構  郭・虎口・土塁・堀切
 設置・復原物  標柱・石碑・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
白華城の築城時期は文安4年(1447)頃され、湊安東氏の一族である安東義仁が築いたとされる。
その後、太郎義賢・岩見佐季定と数代を経て、安東備中守季林の代に最も強力になった。季林は椿川に石塚美濃守家次、筋脇に白根七郎昌吉を配し、石田坂にも支城を築いている。

−落城悲話−
白華城には落城の際の悲話が伝えられている。
永禄10年(1567)の冬の事であり、相手方は雄物川向いの豊島城主である豊島玄蕃であった。

この時、白華城内では安東季林に女児が誕生したということで祝宴が設けられ、防備が緩んでいた時であった。豊島勢は朝から雄物川を渡り、川原の葦の中に夕暮れまで潜み、夜を待って襲撃した。油断を突かれた季林方の将兵は防戦に立つ間もなく次々と討たれていった。生まれたばかりの娘を連れ村里に逃れた奥方もついに途中で力尽き、母娘共に非業の最期を遂げたと伝えられる。

この豊島勢の攻撃において辛くも逃れた季林は、本家の安東氏を頼った。後に安東実季が豊島勢を攻めて白華城を取り返し、季林は旧領を回復する事ができた。
その後、白華城は慶長7年(1602)、安東実季が常陸国宍戸へ転封されるまで湊安東氏の支城として存在した。


 ■ 構成
豊岩集落の西側に位置し、東西約40m×南北150mの面積の山城である。
頂部北側に主郭が位置し、北側の尾根を堀切で分断し、南側に家中屋敷・馬屋を配置している。


 ■ 現況
現在では県道脇に標柱が立っている。そこから住宅地脇を通り急峻な山道を登った所に白華公園として石碑が建っている。

■ 標柱
豊岩集落に建つ標柱。これより西側に登って行く。
■ 登道
以前に比べ整備されており、容易に登ることができる。
■ 大手虎口
城跡の東側に位置する。近年説明板が設置された。
■ 馬出跡
虎口すぐに位置する。
これより北側に主郭、南側に家中屋敷が位置していた。
■ 家中屋敷跡
主郭の南側で平場になっており、家中屋敷の標柱が建っている。
画像左は近年設置された標柱、右側はかなり昔に設置された標柱が残る。
■ 馬屋跡
城域南端に位置する。
白華公園の石碑や安東氏の慰霊碑が祀られている。
■ 慰霊碑
家中屋敷跡に建つ石碑の裏側。
阿部貞任・宗任と安東備中守の一族一門が祀られている。
■ 石碑
慰霊碑と同じく家中屋敷跡に建つ白華公園の石碑。
漢文で書かれており、明治時代の物らしい。
■ 馬屋南端
馬屋跡の南側先端。ここまでは整備されていない様子。
■ 主郭
城域の北側に位置する。
北部を堀切で分断し、南側に家中屋敷を配置している。
■ 主郭東側土塁
主郭東側に設けられた土塁。
■ 主郭北側堀切
主郭北側の尾根を二重の堀切で分断している。竪堀のようにも見える。
■ 主郭西側帯郭
主郭西側に一段低く帯郭が設けられている。
■ 搦手口
馬出西側、大手虎口反対に位置する搦手。
■ 麓から東を望む
豊岩集落より東側を望む。豊島館が目視できる。
■ 説明板
2013年に設置された説明板。
かつて下記の様に記していたが、見違えるように整備されている。(2014年4月時点)
■ 白華城遠望
この城の不思議なところは、「入口」と標柱があるのに入口らしきものが見当たらず、結局民家の軒先か小学校敷地を通らねば登れない。もう少し整備してくれるとありがたいものだ…
                                                ※注:2005年時点での文章