■ 沿革
双六館は館山とも称され、戦国時代には安倍千寿丸の居館であったとされる。千寿丸は近隣の女川景盛、船川右近らを従え、男鹿半島南部に勢力を拡げていた。
しかし、ある時、脇本城主である脇本五郎脩季の攻撃を受けた。千寿丸は50日ほど持ち応えたが、ついに敗れて自害し、千寿丸の奥方は双六館の断崖から身を投げたといわれる。
−繰り返される落城悲話−
天正17年(1589)、脩季は湊合戦において湊安東勢である道季に組した。当初、檜山安東勢である実季は劣勢に立たされたが徐々に勢力を回復し、やがて脇本城を攻撃するに至った。脩季の軍勢は必死に防戦したが、やがて脇本城は落城し、脩季は自害して果てた。脩季の奥方は何とか落ち延びたが檜山勢の追跡は厳しく、ついに千寿丸の館であった双六館跡まで追い詰められた。進退窮まった奥方は館山岬の断崖から身を投げたという。
この断崖は、奇しくも自らの夫に滅ぼされた千寿丸の奥方が身を投げた断崖であり、後に「御前落とし」と呼ばれるようになった。
■ 構成
男鹿半島南部の館山岬に位置する臨海館である。
3郭によって構成され、南端に位置する主郭は別名「御前落とし」と呼ばれ、東西30m×南北50mの規模であり、西縁部に長さ約30m・幅約5m・高さ約2mの土塁状の遺構が残る。
二ノ郭は主郭北側に位置し、堀切を隔てて土橋で繋がっている。東西40m×南北100mの規模で数段の段築を伴う。さらに北側には幅約30mの規模の空堀で区切り、東西70m×南北100の規模である三ノ郭が位置している。
■ 現況
現在、館跡は荒地となっており、夏場には藪が生い茂っている。
二ノ郭跡には灯台が建てられている。
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■ 空堀
幅約30mの空堀で三ノ郭(画像左側)と二ノ郭(画像右側)を区切っている。 |
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■ 二ノ郭
東西40m×南北100mの面積である。 |
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■ 主郭
南端に位置し、東西30m×南北50mの面積である。
周囲を断崖によって囲まれている。 |
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■ 主郭西側
約30m・幅約5m・高さ約2mの土塁とされるが、その規模は小さな郭か物見といっても良い。 |
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