とっこじょう
十狐城
十狐城  訪問年月日  2005年5月1日 / 2012年4月14日
 別称  内館
 所在地  秋田県大館市比内町独鈷字大日堂前
 創築者  浅利則頼
 主要城主  浅利氏
 築城年  永正年間(1504〜21)
 廃城年  −
 様式  山城
 構成  T郭・U郭・V郭・W郭・出丸
 遺構  郭・土塁・空堀
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
十狐城は比内地方を中心に支配していた浅利氏の居城である。
文治5年(1189)、源頼朝による平泉合戦に従った者の中に、甲斐国の名族・浅利太郎冠者義遠(遠義)の名が見える。この義遠は合戦後に恩賞として出羽国比内地方の地頭職を与えられた。以降、浅利氏はこの地に勢力を伸ばす事になる。

−内紛による謀殺−
永正年間(1504〜21)、浅利則頼は甲斐国より比内地方に入部した。当初は赤利又を本拠としたが、十狐城を築いて居城とした。則頼は比内地方の各地に支城をを築いて勢力を拡張し、支配権を確立させ、天文19年(1550)に十狐城で死去した。
則頼の死後に跡を継いだ則頼の嫡子・則祐は、檜山城の安東氏との抗争を繰広げる事になった。しかし則祐は弟である民部大輔勝頼とかねてより不仲であったため、安東愛季と手を結んだ勝頼の手引きによって安東勢に攻込まれ、永禄5年(1562)に則祐は長岡城で自害した。
則祐の死後、勝頼は自らの居城であった中野城から十狐城に拠点を移し、浅利氏を継いだ。その後、長岡城を築いて安東氏の家臣となったが、愛季は浅利氏の勢力拡大を恐れ始めた。そのため天正10年(1582)、勝頼は安東氏によって謀殺された。これにより勝頼の遺児である頼平は津軽為信の下へ逃れ、こうして浅利氏は滅亡し、比内地方は安東氏の支配下に置かれた。

−頼平の浅利氏再興−
愛季の死後に跡を継いでいた秋田実季の代である天正16年(1588)、大館城の城代であった五十目兵庫秀兼が南部氏に内通し、比内地方は南部氏の勢力下に置かれた。しかし、南部信直が同族である九戸政実との内紛に手を焼いている間、実季は津軽為信と手を結んで比内地方を奪還した。実季は為信の仲介もあり、天正18年(1590)には津軽氏により庇護されていた頼平を迎え入れた。浅利氏は秋田氏の家臣として7,000石(太閤蔵入地となった2,000石を含む)を与えられ、代官として再び比内地方を治める事となった。

−浅利氏最後の抗争−
こうして一旦は平穏な時期を過ごしたが、浅利氏の独立心は消えることも無く、また秋田氏の知行7万8,000石の中で一割近くを占める浅利氏を警戒する実季との関係もあり、再び抗争が激化する事となった。
きっかけとなったのは豊臣秀吉による名護屋参陣による軍役金と蔵入米を頼平が未進であった事に始まるとされる。当初は浅利・秋田氏の両者を仲介した木村常陸介重茲の裁決により、不足分を秋田氏が負担する事になったが、文禄3年(1594)に再び未進問題が発生し、この時は実季が実力行使に出て阿仁・鷹巣比内方面の10ヶ村を襲って放火した。
文禄4年(1595)には合戦に及び、この時は浅利勢の夜襲が成功して秋田勢を敗走させているが、後に11月の山田村茂屋野合戦においては浅利勢が敗れている。
さらに慶長元年(1596)に山田村にて衝突するも、4度激突しても双方が引かないという状況まで陥った。

−大坂城での裁定−
この争いは大きな問題となり、頼平の意を受けた浅野長政により調停が行われた。浅利氏には浅野長政・前田利家らが背後に付き、安東氏に対しては肝煎人である佐々淡路守正孝が支持した。結果としては、秋田氏による浅利氏への制裁は認められず、浅利氏も秋田氏よりの離脱が認められないというどちら付かずの判定であった。
しかし、この後も年貢収納などの問題が発生し、再び両者は争いに発展したため、ついに慶長2年(1597)、頼平は片桐且元の手引きにより上洛し、大坂城にて両者の裁定が行われる事となった。頼平は長束正家に対して秋田氏との紛争に関して報告したが、裁決が下される前である慶長3年(1598)頼平が急死するに至り、事実上浅利氏は滅亡した。


 ■ 構成
十狐城は独鈷集落の東側、比高約20mの丘陵上に位置する。
4つの郭と2つの出丸、それらを区切る空堀によって構成されている。
主郭と思わしきT郭の規模は東西約約50m×南北約120mであり、北側に腰郭を擁している。東側は谷地を利用した空堀となっているが、東南に位置する浮島と呼ばれる小沼より水が流れている。
T郭の西側には幅約40mの空堀を隔ててU郭が位置し、その規模は東西約40m×南北約130mである。北側、西側、南側の斜面中程にそれぞれ幅4〜8m程度の帯郭が設けられている。中央部より多量の焼米が出土した事から、米蔵跡と呼称される。
V郭はT郭とU郭の北側に位置し、東西約110m×南北約40mの規模であり、元々はT郭と同一の台地であったが、幅約10mの空堀を設けて分断している。
W郭はV郭の北方約50mの位置にあり、東西約30m×南北約80mの規模であった。
V郭の北側と東側にはそれぞれ出丸が設置され、北側の出丸は東西約25m×南北約40m、東側の出丸は東西約50m×南北約35mの規模である。


 ■ 現況
現在、T郭とU郭は畑地に、V郭は雑木林となっているものの、遺構は比較的良好に残る。
W郭は完全に消失している。

■ 大手口
U郭北側に位置する。
■ T郭〜U間空堀
城域中央部である。空堀というよりは平地に近い規模である。
■ 搦手口か
U郭南側に位置する出入口である。
大手口とは対極に位置する。
■ U郭
中央部より多量の炭化米が出土しており、兵糧蔵跡と推定されている。
■ T郭南側空堀
大日堂社地のある丘陵とT郭を区切る空堀跡。
■ 浮島
城域南東端に位置する。
当時は重要な水源地であったと推察できる。
■ T郭虎口
西側、北西側、東側にそれぞれ設けられた虎口の一つ。
これは北西側のものであり、V郭に直接面するように向いている。
■ T郭
現在は畑地となっている。
■ T郭〜V郭間空堀
幅約10、深さ約10mの規模である。
元々はT郭と同一の丘陵であったが、人工的に空堀を設けて分断している。
■ 東側出丸
城域北東端に位置する出丸。
■ U郭〜V郭間空堀
ここもどちらかといえば空堀よりも平地のような規模である。
■ V郭
雑木林となっている。
■ V郭北側空堀跡
北側の出丸と区切られている。
■ 北側出丸
V郭北側に位置する出丸。
■ 北側出丸よりの眺望
画像右端が消失したW郭跡である。
■ 大日堂
城域南側に位置する。