うらじょう
浦城
浦城 武者溜より主郭を望む  訪問年月日  2003年6月7日 / 2007年2月24日・3月3日
 2010年5月26日 / 2011年6月30日
 別称  浦村城
 所在地  秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町・その他
 創築者  −
 主要城主  千葉氏・三浦氏
 築城年  −
 廃城年  天正17年(1589)
 様式  山城
 構成  主郭・二ノ郭・T郭・U郭・V郭
 遺構  郭・空堀・堀切・土塁・物見櫓
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  町指定史跡
 ■ 沿革
浦城は三浦氏の居城であり、近隣の山内城・馬場目城の本城的役割を担っていた。
浦城の創建時期は明らかではないが、天文年間(1532〜54)から弘治年間(1555〜57)の頃は千葉氏、その後は三浦氏が居城としていた。三浦氏の祖は相模国三浦半島を本拠地としていたが、北条氏に敗れ、その一部が関東管領上杉憲政の下へ身を寄せた。

−安東氏家臣・三浦氏の居城−
戦国時代になると三浦氏は甲斐国の武田氏に仕えるが、その後、三浦近江守盛実の代に出羽国へ赴いて安東氏に仕えた。三浦氏は安東氏に厚遇され、八郎潟湖畔の東方一帯に勢力を伸ばした。盛実の子である和田五郎は鬼王館を居館とし、その孫である三浦兵庫頭盛永は浦城の城主となった。
天正16年(1588)、安東氏において内紛が発生し、湊合戦が勃発すると、盛永は湊安東氏に加担した。そのため浦城は檜山安東氏方の石岡主膳に攻められ、天正17年(1589)頃に落城したという。

−落城悲話−
落城時、盛永は妻が落ち延びさせたのを確認すると城の裏手に位置する西観音滝に上がり、
「剛なる者が死するのを見るがよい。そして汝ら明日の運尽きて自害せん時の手本とせよ」
と言って腹を十文字に掻き切り、臓腑を掴んで敵兵に投げ放って壮絶な最期を遂げた。盛永の遺骸は石頭院阮天なる修験者が匿ったという。
また、盛永の妻は逃げ延びる途中に陣痛が起き、一子(千代若・後の五郎盛季)を産んで家臣に託したが、自らは逃げ切れずに腰元らと自害した。その際に奥方は夫の愛刃を口に咥えてうつ伏せになって倒れたという。
千代若は酒田(一説には越後国)に逃げ延び、後に押切城主になった。


 ■ 構成
浦城は西から東西55×南北26mのT郭、東西42×南北12.5mのU郭が存在し、これらは屋敷跡と称され南北に腰郭を擁する。さらに東側に深さ4m、幅20mの空堀を経て東西130×南北13mの長方形状のV郭があり、西端に物見櫓跡が存在する。
ここから南東側に東西12.5×南北20mの郭があり、鐘楼跡とされる。この東側には東西70×南北40mの主郭が位置し、南北に数段の腰郭を擁する。さらに東には東西45×南北20mの武者溜、さらに東に東西35×南北13mの二ノ郭が位置する。


 ■ 現況
現在浦城跡は八郎潟町と五城目町の境界未定地域にまたがって存在しており、
「浦城の歴史を伝える会」によって散策コースが設けられている。

■ 遠望
南側からの遠望。
■ 常福院
浦城の南麓に位置し、五輪塔が存在する。
■ 武者返しの坂
常福院・副川神社よりの登城道である。
■ 遊歩道
武者返しの坂の西側に整備された遊歩道大規模な空堀であったとも考えられる。
■ 堀切
城域西端に位置する堀切跡。薬研堀となっており、「首人(くびと)」と称する。
北方の高尾山側より侵入する経路を分断する役割を果たしていた。
■ 帯郭
逆茂木が復原されている。
■ 帯郭
城域北側を周回している。
■ T郭跡
東西に長い浦城の西端に位置する郭である。
屋敷跡(便宜上第一屋敷と呼称されている)とされるが、物見としての機能を持っていたと考えられる。
■ T郭東側空堀跡
東側のU郭間との空堀。他の郭間空堀と比べるとかなり小規模である。
■ 南側帯郭
一部眺望の開けた帯郭が存在し、物見櫓が復原されている。
■ 物見櫓よりの眺望
八郎潟方面が一望できる。
■ U郭
T郭の東側に位置し、こちらも屋敷跡(便宜上、第二屋敷と呼称する)とされている。
■ U郭〜V跡間空堀
幅約20、深さ約4mの大規模な空堀である。
V郭西端に位置する櫓台が見える。
■ V郭跡西側切岸
比高約5mの高さであり、角度はかなり急である。
現在は「NPO法人 浦城の歴史を伝える会」により梯子が掛けられており直登が可能である。
北側を迂回するルートも残る。
■ V郭跡北側
かつては上記のようにロープが張られているのみであった。
■ V郭跡
U郭の東側に位置する。ここも屋敷跡であると伝えられており、便宜上第三屋敷と呼称する。
西端は櫓台であったと伝えられる。
■ V郭跡西端よりの眺望
U郭と空堀を見下ろす形になる。
■ V郭
長さ約130mであり、その規模は主郭に次ぐ広さである。
■ V郭畝堀跡
V郭東端に位置する。
畝掘と空堀が続き、さらに東側に武者溜を経て主郭に至る。
■ W郭西端切岸
かつては登り易い様にロープと梯子が設置されていた。現在は崩落のため登れない。
浦城で最高の比高差があると思われる。
■ W郭跡
浦城の中心部に位置し、同台地上の東側に主郭・二ノ郭が存在する。
■ W郭物見櫓跡
W郭西端に位置する。
■ W郭武者溜
主郭西側に設けられている。
■ 主郭跡入口
V郭東側の高台が主郭となっている。
■ 主郭跡
頂部が平坦に削られており、浦城最頂部に位置する。
■ 主郭水路跡
主郭を東西に分断するように凹部が存在する。
東側(画像右側)が台所跡とされ、そこから出た排水を流したものと想定されている。
■ 主郭井戸跡
直径約数mの大規模な穴が存在する。
伝承では化粧などに使用する「ジュショウ石」を採掘した跡と言われるが、恐らく井戸跡を後世に採掘したと考えらえるという。
■ 主郭跡より二ノ郭跡を望む
奥に見えるのは二ノ郭。
■ 二ノ郭跡
主郭東側に位置する。
■ 二ノ郭東側
数段の段築が確認できる。
■ 東端よりの眺望
■ 東側入口
浦城東側、五城目町側からの入口である。
■ 南側斜面
登り道が無いため、途方もない高さの斜面を登ることになる。