やがしわじょう
八柏城
八柏城 説明板  訪問年月日  2004年3月31日
 別称  −
 所在地  秋田県横手市大雄八柏
 創築者  落合十郎か
 主要城主  八柏氏
 築城年  −
 廃城年  −
 様式  平城
 構成  −
 遺構  土塁・堀
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
雄勝郡の稲庭城を居城としていた小野寺氏は、重臣落合氏を平鹿郡の沼館城に配置して支配させていた。寛正年間(1460〜66)になると、小野寺長道の弟である道春が沼館孫三郎を名乗って沼館城に居城した。
そのため沼館城にいた落合十郎は替わりに八柏城を与えられ、これ以降は八柏氏を名乗ったとされる。応仁年間(1467〜69)には稲庭小野寺氏の家老の一人として八柏大和守道友の名が見える。

−名将 八柏大和守道為−
八柏氏は代々大和守を名乗っていたが、特に八柏大和守道為は小野寺輝道・義道2代に仕え、小野寺氏随一の知謀の士として内外に知られていた。
そのため小野寺氏と争っていた最上義光は道為に対して脅威を感じ、排除するために一計を案じた。
最上氏の家臣である楯岡豊前守満茂に命じ、「貴殿山形ノ御味方ニ可被参条、忠節之至候」という内容の手紙を義道の弟である吉田城主、小野寺陳道の下へ届けさせた。道為が最上氏に内応した返礼の手紙を、誤って小野寺氏方に届けてしまったように装ったのである。

道為が寝返ったと早計した義道は道為を横手城に呼び寄せた。疑われているとは知らない道為は横手城下、上根岸の旭川にかかる中の橋付近で、義道の命を受けた樫内淡路と黒沢甚兵衛らによって殺害された。道為の息子2人も飯詰三郎により殺害されたという。
この事件は文禄3年(1594)の頃と思われ、これ以降、道為を失った小野寺氏の凋落は著しいものとなる。


 ■ 構成
八柏城は横手盆地西部中央に位置し、かつては「方70〜80間」の広さであったとされるが今はほとんど不明である。


 ■ 現況
現在八幡神社が祀られており、境内に土塁の一部が残っている。

■ 説明板
説明板は全部手書きである。
■ 外観
現在は宅地化され、遺構はほとんど残っていない。