やまねだて
山根館
山根館 主郭跡入口  訪問年月日  2005年6月25日
 別称  院内館・仁賀保館
 所在地  秋田県にかほ市院内
 創築者  由利維安
 主要城主  由利氏・仁賀保氏
 築城年  応徳2年(1085)
 廃城年  慶長7年(1602)
 様式  山城
 構成  主郭・大手道・塩の道
 遺構  郭・土塁・石塁・礎石・庭石・空堀
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  県指定史跡
 ■ 沿革
山根館は由利十二頭に数えられる仁賀保氏の居城である。

−由利氏と仁賀保氏−
由利郡は応徳2年(1085)、由利太郎維安に与えられ、維安は院内の地に山根館を築いたとされる。その後、由利氏は維平・維久と3代続いて居館としていた。
しかし維安の孫である維久は和田合戦において罪を問われ所領を没収され、建保元年(1213)に由利郡を去った。
由利氏の退去後、甲斐国の小笠原氏の出自とされる大井伯耆守友挙は、応仁元年(1467)に仁賀保に入部し仁賀保氏を名乗った。この際に当初は待居館を居館としたが、翌応仁2年(1458)に山根館を修復して居館とした。

−仁賀保氏の台頭−
仁賀保氏は戦国時代末期頃より、同族である矢島氏と抗争を繰り返してきた。
そして仁賀保氏7代挙誠の代には矢島氏を滅ぼしてその所領を併呑し、以後は亀田の赤尾津氏と並んで由利郡の中で有力な勢力となった。
挙誠はその後、豊臣秀吉の奥羽仕置で所領を安堵され、文禄の役には名護屋城に参陣するなどしてして信任を得た。また、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては西軍に属した上杉景勝の城を攻略した功により感状を与えられている。

慶長7年(1602)、常陸国武田郷に5千石を与えられ、仁賀保氏の転封により山根館は廃城となった。


 ■ 構成
山根館は仁賀保高原のほぼ中央、院内集落と小国集落の間に位置する。
最高所に位置する主郭は東西約95m×南北約46mの面積で、礎石が約200個程度発見されており、それから考察するに4棟程の建物が存在していたものと思われる。
麓の集落からは「大手道」と「塩の道」の2本の道で結ばれている。


 ■ 現況
現在山根館の主郭には礎石・石畳が復原されている。

■ 山根館古道
かつて矢島街道として山根館へ通じていた
■ 塩の道入口
この先山根館に続いている。傍らに馬頭観音が祀られている。
■ 塩の道
延長835mであり、館の北側を通っている。
■ 主郭入口
主郭北東側入口である。
■ 主郭北側
「塩の道」と「大手道」を繋ぐ道が通っている。
■ 主郭入口
主郭北西、大手道側からの登口である。
■ 主郭跡
西側から望んだところ。
■ 主郭礎石跡
この礎石跡から推測して建造物を復原した模型が存在する。
■ 主郭東側土塁跡
土塁が存在する。
■ 主郭跡庭石
かなりの大きさの石が数基存在する。
■ 地図