よこてじょう
横手城
横手城 二ノ丸跡模擬天守  訪問年月日  2003年5月3日 / 2006年10月21日
 別称  朝倉城(阿桜城)・龍ヶ崎城・韮城・衛城
 所在地  秋田県横手市城山町
 創築者  小野寺氏
 主要城主  小野寺氏・鮭延氏・戸村氏
 築城年  −
 廃城年  慶応4年(1868)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸・腰郭
 遺構  郭・土塁・堀
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
横手城は小野寺氏最後の居城であるが、創建に関しては諸説存在する。
・正安2年(1300)、沼館城主・小野寺忠道の子である道有が築城(『和賀小野寺系図』)
・応仁元年(1467)、小野寺氏の家老・横手三郎兵衛道前なる者が築城(『応仁武鑑』)
・天文23年(1554)、小野寺氏輝道が築城
以上、様々な説が存在する。

−小野寺氏最後の居城−
天正5年(1577)、小野寺総領である輝道は、沼館城から横手城に居城を移した。その後、輝道の子である義道の時代になると、小野寺氏は近隣の最上氏・安東氏・由利勢らとそれぞれ抗争を繰り広げ、勢力拡大に努めた。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による太閤検地において大谷吉継が横手城に駐在している。当時、城主である義道は小田原に参陣中であり、城代は義道の弟である大森城主小野寺康道が務めていた。その際、平鹿・雄勝郡で検地に抵抗する一揆が起こり、鍋倉四郎を首領とする2,000余人が増田城に籠城した。結局一揆は鎮圧されたが、その責により検地後、小野寺氏の所領は平鹿・雄勝の一部の3万石に減封され、残りは戸沢氏に4万4千石、本堂氏に9千石、雄勝郡の大部分を最上領へ分配された。

その後、雄勝郡を巡る争いで小野寺氏と最上氏は抗争を繰り返した。しかし最上氏の雄勝侵攻により文禄4年(1595)には岩崎城・湯沢城が、文禄5年(1596)には稲庭城が落城し、小野寺氏の状況は徐々に不利なものへと陥っていった。

−佐竹氏の支城として−
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦において小野寺氏は東軍に与しなかったため、翌6年(1601)に石見国津和野へ配流の身となった。その後横手城には最上氏家臣である鮭延典膳秀綱が入ったが、佐竹氏の秋田入部に伴い、雄勝・平鹿郡は最上氏から佐竹氏に譲られた。
そのため横手城は佐竹氏の支城として城代には国分三河守盛重が入り、慶長8年(1603)には副城代として須田美濃守盛秀が、元和元年(1615)には茂木監物が吉田城より移った。
その後、寛文12年(1672)には戸村十太夫義連が城代となってからは幕末まで戸村氏が城代を務めた。

−本多正純父子 終焉の地−
寛永元年(1624)、宇都宮城にあった本多上総介正純・正勝父子は、2代将軍秀忠暗殺を企てたという疑い(宇都宮釣天井事件)によって所領没収、佐竹義宣預かりの身となった。
本多父子は須田美濃守盛秀のもと横手城に幽閉され、正勝は寛永7年(1630)に、正純は寛永14年(1637)に死去した。

−奥羽越列藩同盟の脱退−
幕末の戊辰戦争に際し、横手城代である戸村十太夫義効は久保田藩の代表として奥羽越列藩同盟に出席した。しかし12代藩主佐竹義堯が最終的に新政府軍側に付く事にしたため、慶応4年(1868)、同盟軍である仙台藩・庄内藩の攻撃を受けた。
横手城は佐竹義堯の命によって蟄居させられていた義効に代わって、義効の子大学が城代を務めていた。横手に入っていた新政府軍の沢副総督は横手放棄を決めたが、大学および横手城の重臣達はこれに従わず、100名余の兵で籠城した。同盟軍は4,000余の軍勢を持って横手城を三方から攻撃し、大学らは必死に防戦したが、敵の攻撃により本丸、続いて二ノ丸も炎上した。大学は切腹しようとしたが家臣らに止められ、搦手より辛くも落ち延び、横手城は落城した。


 ■ 構成
丘陵の突端部に本丸を構え、面積は東西約40m×南北約90mで周囲には腰郭が巡らされている。
その北側80mに武者溜りを隔てて二ノ丸が位置し、面積は東西約60m×南北約90mで、東側には腰郭が設けられている。
大手門は当初本丸の南側にあったが、江戸時代に本丸と二ノ丸の間に移された。


 ■ 現況
現在は横手公園として整備され、本丸跡には秋田神社が祀られ、二ノ丸跡には模擬天守が建築されている。また、城の南東側には本多上野介正純父子の墓が存在する。

■ 大手口
根岸町の市立横手病院脇からの登城口である。江戸時代の大手口にあたる。
■ 大手門跡
本丸北側の武者溜の脇に大手門が位置する。
■ 武者溜跡より二ノ丸を望む
大手門付近からの画像。模擬天守が見える場所が二ノ丸跡である。
■ 武者溜跡
二ノ丸から見たところ。
■ 二ノ丸跡
本丸よりは若干広めであり、模擬天守や小野寺氏の顕彰碑が建てられている。
■ 二ノ丸跡模擬天守
横手城には天守が存在しなかったため、史実には存在しない建造物である。
昭和40年(1965)に建造され、史料館となっている。
■ 二ノ丸北側腰郭跡
一段低くなっている。
■ 本丸北側
武者溜とは反対側から望んだところ。画像奥右手の高台が本丸跡。
■ 本丸東側腰郭
本丸外周はこの様に腰郭で囲まれている。
■ 本丸北側
本丸と武者溜の間である。
■ 本丸西側腰郭
■ 本丸跡
現在は秋田神社が祀られている。
■ 平沼
本丸北東側に位置する。この奥に本多上野介正純の墓がある。
■ 本多上野介正純父子の墓
本丸・二ノ丸からはかなり距離がある。
■ 横手城遠望
横手城西側、蛇の目橋付近からの画像である。二ノ丸模擬天守が見える。
■ 二ノ丸模擬天守からの眺望
■ 地図