よしだじょう
吉田城
吉田城 土塁跡  訪問年月日  2004年3月31日
 別称  西法寺館
 所在地  秋田県横手市平鹿町上吉田字吉田
 創築者  小野寺輝道
 主要城主  小野寺氏
 築城年  永禄年間(1558〜70)頃か
 廃城年  元和元年(1615)
 様式  平城
 構成  −
 遺構  郭・土塁・掘・隅櫓跡
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  県指定史跡
 ■ 沿革
吉田城は、小野寺氏13代輝道が隠居する際に入城した城である。

輝道は永禄年間(1558〜70)頃、家督を二子義道に譲り隠居し、その際に吉田城を築いて入城した。その後、輝道の末子である陳道が吉田城主となった。陳道は小野寺氏総領である兄義道に従って各地で合戦に従軍した。

文禄年間(1592〜96)頃、小野寺氏の所領である雄勝・平鹿郡は度々最上氏の侵攻を受けていたが、吉田城は平城であるにも関わらず落城を免れていた。慶長5年(1600)、上杉景勝に加担した小野寺氏は最上義光を中心とした軍勢に攻められ、吉田城も3,000の兵に囲まれたが、陳道は半分の1,500の手勢で守り抜いた。しかし慶長6年(1601)、小野寺氏は関ヶ原合戦において所領没収となった。
慶長7年(1602)、小野寺氏に替わって佐竹氏が秋田に入部すると、吉田城には茂木監物が置かれた。その後の元和元年(1615)に茂木氏は横手城に移り、吉田城は廃城となった。


 ■ 構成
吉田城は横手盆地の中央南部に位置し、小野寺氏が支配した平野部のほぼ中央に位置する。
城域は東西約100m×南北約90mの方形状であり、高さ2〜3mの土塁で囲まれその四隅に櫓を配していた。特に南西隅の規模が大きく、そのため大手口と伝えられる。北西隅は「花見崎」と称され搦手口であったとされる。
外周は約10m幅の堀で囲まれ、北側約500mには馬場跡・馬洗場・馬水飲場が存在した。


 ■ 現況
現在は土塁が良好な形で残っているが、南側が墓地となり一部破壊されている。

■ 東側土塁
高さ・幅共に2m程度の規模の土塁である。
■ 東側土塁
土塁上からの画像である。
■ 本丸跡
東西約100m×南北約90mの広さである。
画像中心部に見える土塁の切れ目が「花見崎」と呼ばれる搦手口である。
■ 北東隅櫓跡
かつて土塁の四隅には櫓が配されていたといわれる。
■ 北側堀跡
土塁の外周には幅10m程度の堀が配されていた。
北側は現在耕作地となっている。
■ 本丸東側
現在は用水路が流れているが、かつての堀であったのだろうか。
■ 本丸東側
田園風景が拡がる。