ゆざわじょう
湯沢城
湯沢城 本丸跡  訪問年月日  2003年10月21日 / 2006年11月25日
 別称  −
 所在地  秋田県湯沢市湯沢字古館山
 創築者  小野寺道定
 主要城主  小野寺氏・三春氏・原田氏・楯岡氏・佐竹氏
 築城年  建治3年(1277)
 廃城年  元和6年(1620)
 様式  山城
 構成  本丸・二ノ丸・五社壇・馬場・見張台
 遺構  郭・空堀・堀切
 設置・復原物  標柱・説明板
 文化財指定  市指定史跡
 ■ 沿革
鎌倉時代初期、小野寺経道は雄勝郡に入部して稲庭城を居城にし、建治3年(1277)に三男である小野寺三郎道定に湯沢城を築かせ、雄勝郡支配の南の抑えとした。

−小野寺氏の盛衰−
天文21年(1552)、湯沢城において横手佐渡守(大和田光盛)と金沢八幡別当・金乗坊が謀って小野寺氏12代稙道を暗殺し、小野寺氏の実権を奪うという事件が起きた。そのため稙道の子である輝道は羽黒山に逃れ、庄内の大宝寺氏に保護された。その後、大宝寺氏の力を借りて成長した輝道は勢力を盛り返し、3年後の弘治元年(1555)には佐渡守らを討ち、仇を取ったと言われる。

輝道の子である義道の時代になった天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置による検地に対し、小野寺領である仙北郡で一揆が起こった。この一揆は秀吉の命で大森城に在城していた上杉景勝によって間もなく鎮圧されたが、この責により小野寺領であった増田・湯沢の地は蔵入地として没収、替わって最上義光が代官に任じられた。

−最上氏の雄勝郡侵攻−
そのため文禄2年(1593)、最上氏は領有を主張して雄勝郡に侵攻した。
先陣は鮭延典膳秀綱が務めた。有屋峠を越えた秀綱はまず八口内城を攻撃し、これを落城させて城主・八口内尾張守貞冬を討った。その後、町田長右衛門が籠もる小野城、菅六郎内記が籠もる草井崎城、その他に中村城・寺沢城・院内城・横堀城・御返事城・合川城の諸城を次々と攻撃し、10日間で落とした。そして湯沢城まであとわずかまで迫ったが、兵の疲弊もあり、結局この時は兵を引き上げた。

しかし文禄4年(1595)、再び最上氏は雄勝郡へ侵攻した。総大将は楯岡豊前守満茂、先陣は前回と同じ鮭延典膳秀綱。その他に小国氏・延沢氏・天童氏・東根氏といった山形の武将、さらに雄勝郡の山田氏・柳田氏・松岡氏・深堀氏といった小野寺氏の降将、由利郡からの援軍など数千の兵で湯沢城を取り囲んだ。
この時の湯沢城の城将は、先だって小野寺義道に討たれた重臣・八柏大和守道為の弟である孫七郎・孫作兄弟であった。孫七郎らは小野寺氏の家名を許され湯沢城主となったが、雄勝郡の諸将が次々と最上勢に降り、本城である横手城からの援軍も無く、孤立状態であった。その結果必死の防戦も空しく、孫作は討死、孫七郎は自刃して果てた。

−最上氏の支配から佐竹南家へ−
その後、湯沢城は楯岡豊前守満茂が城主となり、最上氏の城として雄勝・平鹿郡の100余郷を支配した。
さらに関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)、この地は秋田に転封された佐竹氏に与えられ、湯沢城は佐竹南家3代義種が城主となった。義種は城を整備するとともに城下町としての町割を整え、城の麓に御屋敷をかまえた。しかし元和6年(1620)、「一国一城令」によって湯沢城は破却された。


 ■ 構成
湯沢城は本丸と、北側に位置する二ノ丸との大きく分けて二つの郭で構成される。
本丸は東西約30m×南北約80mの面積であり、周囲に五社壇・馬場・見張台などが設けられていた。
二ノ丸は東西約40m×南北約20mの面積であり、大手口は山麓の細小路から「七曲」と呼ばれるつづら折の登道を経て本丸と二ノ丸の間の堀切に通じている。


 ■ 現況
現在は中央公園より散策コースが設けられている。

■ 湯沢城入口
中央公園側からの入口。
■ 佐竹南家の門
昭和55年5月、都市計画の道路整備によってここに移転された。
■ 登道
つづら折でアスファルト舗装されている。
■ 郭跡
所々に郭の跡だろうか、段差が見える。
■ 郭跡
幅1m位の通路にもなっている段差である。
■ 北の郭跡
北端に位置する。地図や説明板などには表記されていないようだ。
■ 二ノ丸跡入口
かなり手狭な登道である。
■ 二ノ丸跡
標柱によると「北の砦」とも称され、北方よりの侵入に備えた郭だという。
■ 馬舎跡
この先は見張台跡に続く。
■ 見張台跡
市内が一望できるほどの見晴らしである。
■ 見張台跡より市内を望む
■ 本丸跡外周
草で覆われ分かりづらいが、画像真中奥に2〜3m程の高さの本丸跡がある。
■ 本丸跡
標柱によると城主の居住する館が存在したという。
■ 五社壇跡入口
本丸跡南部に位置する高台を登る。
■ 五社壇跡
五社とは天照大神・春日神・八幡神・稲荷神・宮綱神といわれ、この五社を祀っていた。
■ 堀切跡
現在は道が大きく内側(画像右側)に迂回しているが、かつては橋か何か架かっていたのだろうか。
■ 馬場跡
南北に長い郭。南方に矢場や星場を備えていたという。
■ 説明板
裏手に説明板が設置されている。
■ 地図