あせいしじょう
浅瀬石城
浅瀬石城 石碑  訪問年月日  2006年8月20日
 別称  汗石城
 所在地  青森県黒石市高賀野
 創築者  千徳伊予守行重
 主要城主  千徳氏
 築城年  仁治元年(1240)
 廃城年  慶長2年(1597)
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸・侍屋敷・町屋敷・代官館・御堂館
 遺構  郭・掘・土塁
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  国指定史跡
 ■ 沿革
浅瀬石城は千徳氏の居城である。
千徳氏は一戸南部氏の一族であり、閉伊郡の千徳城を居城としていた。
一戸氏の始まりは、文治5年(1189)に源頼朝による奥州合戦において功を上げた南部光行が陸奥国糖部郡を与えられ、その長男である彦太郎行朝は庶子であったため一戸氏を興した事である。
仁治元年(1240)、行朝の子である行重の代、浅瀬石の南方にある高賀野の高台に浅瀬石城を築いた。

文中年間(1372〜75)には桜庭某(安房守光康か)が城主であったとされ、文安元年(1444)には城域北側に代官館が築かれ、浅瀬石城の全体が整ったとされる。

−南部氏への叛逆−
永禄4年(1561)、千徳氏10代政氏は大浦(津軽)為信と「永禄の約」を結んだ。この約は共同して津軽の諸城を攻め、津軽地方の統一後は大浦氏と千徳氏と二分して支配する事を約束したものである。この約を結んだ事により、天正4年(1576)、為信が主家・南部氏に背いて滝本播磨守重行が城代を勤める大光寺城を攻撃した際、千徳氏はこれに協力し、大光寺城を落城させた。
また天正13年(1585)、為信が千徳氏の分家である田舎館城の千徳掃部政武を攻撃した際もこれに協力し、落城させている。
千徳氏の叛意が明確になると、南部信直は名久井日向守を攻手として浅瀬石城を攻撃させた。だが千徳氏は地の利を利用して撃退した。

−津軽氏との反目−
しかし慶長2年(1597)、千徳氏11代安芸之助政康の代に大浦氏と対立することになる。これに関しては千徳氏の家臣でも意見が割れ、主君の考えに反する家臣・木村越後守ら17人が大浦氏の下へ逃亡し、これにより浅瀬石城は大浦勢に攻められる事となった。
大浦勢は兵を三手に分け、城の背後の攻手は千徳氏を背いた木村越後守・盛岡金吾らが担った。結果、千徳勢は攻撃を支えきれず、千徳政康は自害して浅瀬石城は落城した。


 ■ 構成
浅瀬石城は本丸・二ノ丸・侍屋敷・町屋敷・代官館・御堂館の6つの郭で構成される。
本丸は東西約170m×南北約180mで、城のある丘陵の西端に位置する。
二ノ丸は本丸の東側に位置し、東西約60m×南北約80mで北方は谷が、南方は山が続いている。
侍屋敷・町屋敷は城の南方に位置し、東西約200m×南北約80mの広さである。これらの郭がある丘陵の北側には二股沢が流れ、これを隔てて代官館・御堂館は東西に並んでいる。


 ■ 現況
現在は城域の殆どがりんご園となっている。

■ 侍屋敷跡遠望
浅瀬石城左岸の丘陵に位置する。
■ 館神社
社背後の土盛は物見台であろうか。
■ 侍屋敷跡標柱
上記の館神社向かいである。周囲には説明板や石碑がある。
■ 主郭跡
北側下より望んだところ。
■ 眺望
館神社周辺より北方を望む。
■ 浅瀬石城遠望
■ 浅瀬石城遠望
上記画像より左、東側の遠望である。
■ 地図
説明板であるが、劣化していて判読困難。