だいこうじじょう
大光寺城
大光寺城 石碑  訪問年月日  2006年8月20日
 別称  大光寺古館
 所在地  青森県平川市大光寺三村井
 創築者  曽我道性か
 主要城主  曽我氏・安東氏・南部氏・津軽氏
 築城年  貞応3年(1224)か
 廃城年  慶長15年(1610)
 様式  平城
 構成  北郭・南郭・袖郭・小館・古館
 遺構  郭・土塁・堀
 設置・復原物  石碑・説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
大光寺城は古館・小館・新城に別けられる。
大光寺古館は曽我氏時代、新城は南部氏支配の頃のものと思われ、小館はこれらの支城的役割を果たしていたと推察される。

−曽我氏の大光寺古館−
建保5年(1217)、平広忠(曽我小五郎真光・曽我五郎次郎か)が平賀郡岩館の地頭代として入部した。しかし、これより前の建久元年(1190)に曽我検校時広(広忠の父と思われる)が地頭職に任じられているという説もある。いずれにせよ貞応3年(1224)には曽我五郎次郎が地頭職を継いでいる。この五郎次郎とは広忠の子である小次郎惟重と思われる。
その後、同じく広忠の子である太郎兵衛尉助光は大光寺に本拠を移し、岩館には惟重が残った。助光の子である太郎兵衛は入道して道性と号し、北朝方に付いたが、岩館曽我氏は南朝方に付いたために両氏は同族で争うようになった。

正慶2年(元弘3・1333)、鎌倉幕府が滅亡し、執権である北条氏が滅びると、津軽にに北条一族の安達高景と名越時如(なごしときゆき)が逃れてきた。道性はこれを受け入れ庇護したが、建武5年(延元3年・1338)、南朝方に属した岩館の曽我光高や田舎郡の工藤貞行・成田泰次らの攻撃を受けた。道性は持ち堪えられず大光寺城を捨て石川城に逃れ、その後、持寄城に逃れた。しかし持寄城でも敗れて道性は捕らわれ、その子・左衛門太郎重経は討死、その子・彦三郎は祖父と共に捕らわれて工藤氏の下へ送られたという。この時の大光寺城は「大光寺古館」であると思われる。
この合戦後、岩館曽我氏が大光寺城に入り、岩館と大光寺を拠点にして平賀・岩館・沼館に勢力を伸ばした。

−安東氏から南部氏の支配へ−
暦応元年(延元3・1338)、安東氏一族である藤崎城主・安東次郎左衛門秀光が支配する十三湊が大津波に襲われ、壊滅してしまった。そこで秀光は大光寺の五日市館に入り、大光寺氏を名乗った。その後、秀光は気仙郡大崎城主である葛西頼清の娘を娶った事により、応永年間(1394〜1428)に大光寺城主になった。これが「大光寺新城」であると思われる。

永享年間(1429〜41)、大光寺城は三戸南部氏13代守行の攻撃を受けた。それ以降は南部氏の支配下に置かれ、後に南部遠江守信愛が居城とした。信愛の子である南部左衛門光愛が亡くなった後は、光愛の幼い遺児である六郎と七郎の後見として滝本播磨守重行が城代となったが、天正3年(1575)、大浦為信の攻撃を受け大光寺城は落城し、六郎と七郎は比内地方に逃れた。

天正7年(1579)、六郎・七郎兄弟は滝本重行や北畠顕則らと比内より600余騎をもって津軽へ侵攻した。兄弟は乳井城・乳井茶臼館を落城させたが、沖館城を攻めきれずに苦境に陥り、為信率いる軍勢と戦った六羽川合戦において敗れたため撤退した。

−大浦氏の支城−
大浦氏の支配下になった後、天正10年(1582)に乳井大隈守建清が城主に任じられ、慶長4年(1599)には為信の女婿である津軽左馬助建広が城主となった。
慶長12年(1607)、津軽為信が亡くなると、建広は後継者に為信の孫である熊千代を推したが受け入れられなかったため、翌年大光寺城を去った。その後慶長15年(1610)、大光寺城は取壊され、石材や材木を運び出されて廃城となった。


 ■ 構成
古館は新城の北方約300mの地に位置し、一辺が約150mの三角形状の丘陵が館跡である。
大手口は現在の観音堂入口に当たり、搦手口は北側であったと推測される。

新城は平地の丘陵上に築かれた平城である。
主郭を中心に北側に北郭、南側に南郭、東側に袖郭が配置されている。大手門は南郭の南端に位置し、枡形がが設けられていた。搦手門は北郭の北端で、大手と同じく枡形であった。

小館の


 ■ 現況
現在大光寺古館の主郭は保食神社となっており、周囲は農地となっている。
大光寺城は主郭がグラウンドに、周囲は住宅地となっている。

■ 大光寺城 主郭跡
城の中心部に位置する。
現在はコミュニティセンターとそのグラウンドになっている。
■ 堀跡
主郭跡であるコミュニティセンター南側に発掘調査の跡らしき現場があった。
かつてはこの道路自体が堀であったと思われる。
■ 大手口跡
南郭南端に位置していた。枡形であったというが遺構は残っていない。
■ 南郭跡
主郭の南側に位置する。
現在は住宅地となっている。
■ 袖郭跡
主郭東側に位置する。
主郭より若干低い構成である。
■ 北郭跡
主郭北側に位置する。
現在はは果樹園となっている。
■ 不動堂
北館の北端に位置する。
かつてはこの場所が搦手口であった。道路が枡形状である。
■ 大光寺古館跡遠望
北西側より望んだところ。
大光寺新城より2〜300m程北西に離れた場所に位置する。
■ 保食神社入口
保食神社がかつての古館主郭跡であり、神社の現在の入口が主郭入口であったという。
神社東側が入口である。
■ 主郭跡
古館主郭跡である。
■ 主郭北側
画像左側が主郭跡。若干の段差が見える。
■ 主郭北側
現在は畑となっている。
■ 主郭南側
土塁跡のような盛り上りがある。
■ 主郭南側
こちらも畑になっている。
■ 地図