はちのへじょう
八戸城
八戸城 標柱  訪問年月日  2005年4月30日
 別称  中館・三八城(みやしろ)城・八戸陣屋
 所在地  青森県八戸市内丸
 創築者  南部直房
 主要城主  南部氏
 築城年  南北朝時代(1330〜1392)か
 廃城年  明治4年(1871)
 様式  平城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸
 遺構  土塁・空堀・旧御殿表門
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
八戸城は、根城南部氏2代政長の三男・信助が根城の支城として築いたのが始まりであるとされる。
以降、信助の子孫は中館氏と名乗り、八戸城を代々居城とするが、寛永4年(1627)、八戸氏が遠野へ移されると中館氏もこれに従い、以後八戸地方は南部氏の直轄となった。
南部藩初代藩主である利直は八戸の利便性に着目し、柏崎の地に館を築いて統治の中心として街づくりに力を入れた。

−南部藩分割−
寛文4年(1664)、南部藩2代である南部重直は後継を定めないまま没した。
当時は嗣子無くして藩主が死去した場合は改易されるのが常であり、藩の重臣たちは重直の異母弟である七戸隼人重信を世子として幕府に届け出た。しかし幕府はこれを認めず、南部藩10万石は一旦改易、そして重信に盛岡8万石、同じく重直の異母弟(重信とも異母弟)である中里数馬直好に八戸2万石を新たに与え、ここに八戸藩が誕生することになった。

八戸藩初代藩主である直好は名を直房と改め、居城はかつての根城跡ではなく三八城山にあった館を修築して八戸城とし、家臣団の編成と城下町の整備に取り組んだ。
信房の跡を継いだ嗣子直政は5代将軍綱吉の御側御用人を務め、商業や産業を奨励して藩政確立に努めて英主と仰がれた。

−八戸「城」として−
八戸城は本来、城というより陣屋に近いものであった。当初は「城」と呼ばれていたものの、後に「御屋敷」と呼びかえられた。さらに天保9年(1838)、8代信真の代には沿岸警備の功が認められ、幕府によって城主格として認められて再び城と呼ばれるようになった。
以降、天守や隅櫓を構築する計画が立てられたが明治維新をむかえ、明治4年(1871)、廃藩置県とともに八戸城は廃城になった。

 ■ 構成
八戸城は本丸・二ノ丸・三ノ丸から構成されていた。
本丸は城の北端に位置し、150m×200mの面積で四方を水堀と土塁で囲まれていた。現在三八城神社がある付近に御殿が建てられ、北方の小高い所に物見台があり、その付近には庭園が存在したという。
大手門は本丸南に位置し、「綱御門」と呼ばれた。
二ノ丸は本丸の東側に位置し、北側に搦手門があって藩主一族や重臣の屋敷が存在していた。

 ■ 現況
現在はほとんど市街地化され、本丸跡は三八城公園として三八城神社が祀られている。

■ 八戸城入口
八戸城南東側に位置する。
■ 本丸跡標柱
■ 本丸跡
三八城公園となっている。
■ 本丸跡よりの眺望
八戸城西側の眺望である。
■ 南部直房公銅像
八戸藩初代藩主である直房公の銅像。本丸中央部に位置する。
■ 弁慶石
石の所々が人間の大きな足跡のように見えるため、「武蔵坊弁慶が足跡を残した」という伝承があるという。
■ 二ノ丸跡
本丸跡(現三八城公園)の南東側に位置する。
■ 二ノ丸跡
北側を望んだところ。
■ 角御殿表門
現在南部会館のあるこの地には、寛政年間(1789〜1801)には角御殿(すみごてん)と呼ばれた建物が存在していた。
寛政4年(1792)、煙山治部右衛門が居住し、城門を建築するように命じられて同9年に建てられた表門である。昭和53年(1978)に風雪被害で倒壊し、同55年に復原された。
門は棟門と呼ばれる構造形式で、通常二本の柱の上部を冠木で繋ぐところを、この門は4本の柱を用いた大規模なものであった。