ひろさきじょう
弘前城
弘前城 現存天守  訪問年月日  2003年8月15日 / 2007年8月20日
 別称  高岡城・鷹岡城
 所在地  青森県弘前市下白銀町
 創築者  津軽信枚
 主要城主  津軽氏
 築城年  慶長16年(1611)
 廃城年  −
 様式  平山城
 構成  本丸・二ノ丸・三ノ丸・北ノ郭・西ノ郭
 遺構  天守・櫓・門・石垣・土塁・水堀
 設置・復原物  説明板・津軽為信公銅像
 文化財指定  国指定史跡
 ■ 沿革
津軽氏の居城であり、東北における唯一の現存天守を持つ城である。

−藩祖為信の躍進−
後の弘前藩祖である大浦為信は、主家である南部氏の支配を受けていたが、元亀2年(1571)5月5日未明、本拠地大浦城から支城の堀越城を足がかりに南部氏の重臣石川高信の居城である石川城を急襲した。結果、高信を自刃させ石川城を落とした為信は、その日のうちに和徳城を攻略、小山内讃岐守を自刃に追い込み、和徳城も落城させた。

以後天正2年(1574)に浅瀬石城の千徳政氏、天正3年(1575)に大光寺城の滝本播磨守重行、
天正6年(1578)に浪岡城の北畠顕村、天正13年(1585)に油川城の奥瀬善九郎、
田舎館城の千徳掃部政武、天正16年(1588)に飯詰城の朝日佐衛門尉、と次々と滅ぼして17年で津軽統一を果たした。

−南部氏からの独立−
天正17年(1589)、為信は豊臣秀吉に家臣の八木橋備中を遣わし、平賀郡・田舎郡・鼻和郡の3郡および合浦一円4万5千石の支配を認められ、姓を大浦から津軽に改めた。
翌18年(1590)には為信自身が小田原包囲中の秀吉に謁見し、津軽安堵の朱印状を受けた。これによって津軽為信の4万5,000石の知行が確定する。

文禄3年(1594)、為信は居城を大浦城は領内の統治に不備があるとして支城の堀越城を拡張し、居を移した。慶長3年(1598)、秀吉が死去し、為信は徳川家康と誼を通じて慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には東軍に属し、美濃大垣城攻めにも参加したため上野国2千石を加増されている。

−大浦城から堀越城そして高岡城へ−
しかし為信の留守中に国元で尾崎・多田・板垣の3武将が謀反を起こし、一時堀越城を占拠される事件が起こった。さらに慶長7年(1602)、為信が嫡孫の大熊(当時3歳)の顔に誤って大火傷を負わせてしまった事に端を発して家臣の天童4兄弟が堀越城本丸・二ノ丸・三ノ丸へ切り込んだ「天童事件」など、不穏な事件が続いた。この様に堀越城は平地にあるため守りに薄く、またしばしば水害に悩まされるため新たな居城の建設の必要があった。

そのため慶長8年(1603)、武田流軍学者である軍師沼田面松斎祐光に命じ、兵法・立地条件・陰陽五行の思想から「四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)が四方(東西南北)を守護する四神相応の地」として高岡二ツ石の地を推奨し、為信はこれを元に翌慶長9年(1604)に地割・町割に着手した。
だがこの新しい町の造成に応ずる者が少なかったため、慶長11年(1606)には移住者には米や材木を支給する奨励策を講じている。

−信枚、跡を継ぐ−
慶長12年(1607)、嫡子信建に続いて為信が病死し、跡を継いだ三男越中守信枚が為信の遺志を引き継いで慶長16年(1611)に完成し、地名から高岡城と命名された。高岡城は当初、4万7,000石の藩としては珍しく五層の天守を擁していたという。

しかし寛永4年(1627)9月、落雷によって天守が焼失し、翌寛永5年には落雷による火災で傷んだ本丸御殿を改修し、名を弘前城と改めた。しかしその後は凶作や地震、蝦夷地の警備など出費が重なり天守閣の再建は成されなかった。

−天守の再建−
文化2年(1805)、9代藩主寧親の時代に蝦夷地警備の労を称されて7万石に加増され、同5年(1808)にはさらに10万石になった。
そのため対面を保つためもあり、文化7年(1810)本丸東南隅の辰巳櫓を取壊して現在残る三層天守を築いた。しかしこの普請は藩の財政をさらに圧迫し、百姓一揆を誘発させる要因ともなった。

その後慶応4年(1868)、12代藩主承昭は奥羽越列藩同盟をいちはやく脱退し、新政府軍に加わった。この恭順が認められたのか、廃藩置県後も取り壊しを免れて現在まで旧状をほぼ留め、天守・櫓・門など九棟が現存している。


 ■ 構成
弘前城は本丸・二ノ丸・三ノ丸・北ノ郭・西ノ郭・内北ノ郭・西外郭から成り、天守閣の他櫓8基・門12基が建ち、三重の堀をめぐらせていた。
重臣たちの屋敷を二ノ丸・三ノ丸・北ノ郭に配し、町人は外郭に住まわせた。また城の南側に「南塘」の雅名を冠した東西550m×南北170mの大溜池を掘り、平時は人馬の水練の場として、戦時下には南側の最大の防御線であり、東端の土塁を切る事により土淵川を増水させて敵の渡河を防ぐ目的があった。


 ■ 現況
城跡は津軽氏城跡として長勝寺構・新寺構・堀越城跡とともに国指定史跡となっている。
弘前城跡自体は弘前公園となっており、GWには桜の名所として観光客で賑わっている。
建造物は天守・櫓・門、また石垣・土塁・堀が良好な形で現存している。

■ 三ノ丸追手門
城の三ノ丸南側の門である。
■ 三ノ丸東門
城の三ノ丸東側の門である。
■ 三ノ丸跡

■ 四ノ丸北門亀甲橋
四ノ丸北側入口の北門へ至る橋である。
■ 四ノ丸北門
城の北側入口である。かつてはここ北門が追手門であった。
この門は信枚が弘前城築城の際に大光寺城の城門を移築・再建したといわれ、他の城門と比べても最古の形式で建てられており、また規模も最も大きい。
昭和33年の保存修理に当たって柱などから無数の矢傷が見つかり、実戦経験の無い弘前城にとって唯一の実戦痕が残る建造物である。
■ 四ノ丸北門内側
■ 四ノ丸跡
■ 賀田橋
四ノ丸から三ノ丸へ至る橋。
■ 三ノ丸賀田御門跡
四ノ丸から三ノ丸へ至る門跡。枡形が設けられている。
かつて北門が大手であったときにはこの門が三ノ丸北門として大手の役割を持っていた。
賀田城(大浦城)の大手門を移築したと伝えられる。
■ 二ノ丸南内門
三ノ丸追手門から二ノ丸南側への入口にあたる。
■ 二ノ丸東内門
三ノ丸東門から二ノ丸東口への入口にあたる。 
■ 二ノ丸東門与力番所
かつては追手門や東門など12ヶ所に与力番所が置かれ、城内の警備に当たっていた。
この番所の建築年代は定かではないが、柱や梁に残された墨書は江戸時代初期の三ノ丸東門のそれと酷似し、建築手法は江戸時代中期の様相であることから、古材を利用し、江戸時代中期に一度改修したものと推測される。
廃藩置県後も取り壊されることも無く放置されていたものを移築し、公園管理人宿舎や作業員詰所として利用されていたものを再度復原・移築したものである。
■ 二ノ丸時太鼓櫓跡
二ノ丸辰巳櫓脇に位置する。城内で時間を知らせるための太鼓を打つ櫓が建っていた。
明治4年(1871)に解体された。
■ 二ノ丸辰巳(たつみ)櫓
二ノ丸南東に位置する三層櫓。
土蔵造で一・二層は4間四方の同面積であるが、三層目を小さくし、屋根は入母屋造にしている。
かつてはこの櫓から三ノ丸を通る弘前八幡宮の山車行列などを観覧したという。
■ 二ノ丸未申(ひつじさる)櫓
二ノ丸南西に位置する櫓。
現存3基の櫓はいずれも同じような姿であるが、微妙に窓の形などに違いが見られるという。
■ 二ノ丸丑寅(うしとら)櫓
二ノ丸北東に位置する櫓。
■ 下乗橋
本丸と二ノ丸を繋ぐ橋。
築城当初は橋の両側は土留板であったが、文化8年(1811)に石垣に改装された。
■ 武者屯御門(むしゃだまりごもん)跡
本丸南側と二ノ丸を繋ぐ部分で、有事の際はここで大将が軍装を整えて号令を発する場所である。
■ 本丸南虎口
武者屯御門を通り、本丸の南側入口に当たる。この石垣の巨石は「亀の石」と呼ばれる。
左奥に見えるのは天守。
■ 天守(御三階櫓)
寛永4年(1627)の五層天守焼失後はしばらく天守無しの状態であったが、文化7年(1810)に本丸東南の辰巳櫓を取壊して築いた三層天守。
江戸時代後期の建築ではあるが、東北で唯一現存の天守である。
■ 下乗橋から望む天守閣
上記写真(本丸内側から見た)と見比べてみると、外側(二ノ丸側)から見た外観がまったく異なる造であることが分かる。
この角度から見た天守が最も美しく見えるといわれ、人気の撮影スポットでもある。
■ 本丸跡
本丸には現存天守を初め、数基の櫓や館・蔵が存在した。
■ 本丸未申櫓跡
本丸南西に位置し、かつてはここに五層の天守が築かれていた。
しかし寛永4年(1627)に落雷で焼失後は隅櫓が建設されていた。
■ 本丸戌亥櫓跡
本丸北西に位置する櫓跡。
■ 本丸御殿礎石跡
かつては本丸の7割に当たる面積に本丸御殿が築かれ、藩主が政務や日常生活を送っていた。
この礎石は玄関の柱が建っていた。
■ 御金蔵跡
寛文13年(1673)の絵図に既に記載があるが、延宝8年(1680)に建てられたとされる。
元禄4年(1691)頃は屋根が瓦葺であった。
■ 御日記蔵跡
『弘前藩庁御国日記』と呼ばれる日記を保管した蔵跡。
■ 御宝蔵跡
『青山』と呼ばれた琵琶や、小野小町が持っていたと伝えられる琴などを保管していたという。
■ 鷹丘橋
本丸と北ノ郭を繋ぐ橋。
■ 北ノ郭跡
本丸北側に位置する郭である。
■ 北ノ丸子櫓(ねのやぐら)跡
北ノ丸に藩政時代を通して存在した櫓跡。明治39年(1906)に花火のため焼失した。
規模は4間四方なので現存3櫓と同規模と推測される。
■ 館神跡
2代藩主信枚が豊臣秀吉公の木像を御神体として安置していた。
■ 籾蔵跡
かつて4代藩主信政の生母である久祥院の館があったが、宝永元年(1704)以降は宝蔵や籾蔵が建てられていた。
■ 鷹丘橋
北ノ郭と本丸をつなぐ橋である。
■ 蓮池
本丸西側に位置する池である。
■ 西外ノ郭
かつて厩や馬場が存在し、馬屋町と呼ばれるようになった。
■ 西ノ郭埋門跡
延宝4年(1676)の規定によると、普段は扉を閉めていたという。
■ 西堀
西側の外堀である。
■ 城内地図