■ 沿革
堀越城は南北朝時代に津軽地方の地頭であった曾我貞光が堀越に館を築いたのがその始まりとされる。しかし、貞光は元中年間(1380〜92)に田舎郡の八戸南部政光、もしくは三戸南部氏に滅ぼされ、堀越の地も南部氏の手に落ちたものと考えられる。
−曾我氏から大浦氏へ−
その後、堀越城は大浦氏の支城となった。そして元亀2年(1571)、大浦為信は津軽統一に乗り出し、堀越城を拠点として南部氏の諸城を攻撃した。手始めに南部氏の有力者である石川高信の居城・石川城襲撃を皮切りに、次々と津軽地方における南部氏の城館を落とし、17年で津軽統一を果たした。
為信はその後、豊臣秀吉に所領を安堵され、文禄3年(1594)、居城を大浦城から堀越城に移した。さらに慶長5年(1600)、関ヶ原合戦においても為信は徳川家康に味方して津軽地方の支配を確実なものとした。
−度重なる事件−
為信が関ヶ原合戦に参陣中、手勢2,000では兵数が足りず津軽に援軍追加の命を伝え、急遽、松野信安・尾崎喜蔵・多田玄蕃・板垣兵部将兼ら4武将が800の手勢を率いて向かう事になった。しかし尾崎・多田・板垣の3武将は石田方の勝利を信じてこれに従わず、謀反を起こした。
3武将は堀越城番であった浪岡主馬・土岐新助・田村六左衛門らを殺害し、一時堀越城を占拠した。やがて石田方敗退の報が入ると一味は狼狽して乱れ、板垣・尾崎らは金小三郎信則に討たれ、多田は火薬の発火により爆死して、この謀反は平定されている。
さらに慶長7年(1602)、為信が嫡孫である大熊(当時3歳)の顔に誤って大火傷を負わせてしまった事に端を発し、家臣の天童4兄弟が堀越城本丸・二ノ丸・三ノ丸へ切り込んだ「天童事件」など、不穏な事件が相次いだ。
このため為信は堀越城は居城として不備があると感じ、慶長16年(1611)、高岡の地に高岡城(後の弘前城)を築き、居城を堀越城から移した。
やがて元和元年(1615)、一国一城令により堀越城は廃城になり、建造物は破壊された。
■ 構成
本丸は東西80m×南北90mで高さ2mの土塁と幅10mの水堀で囲まれていた。
本丸の東側に二ノ丸が位置し、本丸と二ノ丸を囲むように三ノ丸がある。
■ 現況
現在は弘前城・種里城と共に「津軽氏城跡」として国指定史跡になっている。
本丸跡は熊野宮となっており、二ノ丸・三ノ丸は果樹園・空地となっている。
二ノ丸は国道7号線バイパスによって分断されている。
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■ 二ノ丸北東側虎口跡
二ノ丸北側に僅かに残る土塁跡。形状からして枡形虎口であったと思われる。 |
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■ 内堀
二ノ丸の北東側と本丸の間に位置する堀跡。 |
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■ 本丸入口
本丸北側に位置する。土橋で繋がれている。 |
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■ 本丸北東側堀跡
上記画像と同じく、こちらは西側である。 |
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■ 本丸北側虎口
本丸側から見たところ。土塁で囲まれているのが分かる。 |
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■ 本丸
熊野宮神社・公民館などの敷地になっている。 |
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■ 本丸東側入口
東側にも同じように土塁が切れていて入口となっている場所がある。
搦手口か、それとも後世のものか・・・ |
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