ふじさきじょう
藤崎城
藤崎城 標柱  訪問年月日  2003年8月15日 / 2006年8月20日
 別称  −
 所在地  青森県南津軽郡藤崎町藤崎
 創築者  安倍堯恒
 主要城主  安東氏・南部氏・津軽氏
 築城年  寛治6年(1082)
 廃城年  天正13年(1585)
 様式  平城
 構成  本丸・西ノ郭・東ノ郭
 遺構  土塁
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
藤崎城は安東氏が初めて津軽地域に築いた居城である。

−安東氏の祖 高星丸−
伝承によると、康平5年(1063)の前九年の役で源頼義に討たれた安倍貞任の子高星丸が津軽に逃れ、安倍十郎貞義と名乗った。その子である堯恒が寛治6年(1092)に築城して居城とし、子孫は安東氏を名乗るようにったという。
その後の寛喜元年(1229)、堯恒の子である貞季は福島城の十三秀直を萩野台合戦(弘前市津賀付近)において破り、その孫の愛季(よしずえ)が居城を福島城に移した。そして藤崎城は後に安東一族のひとりである安東高季が居城とした。

−安東氏の隆盛と流転−
安東氏は建武の中興の際には南朝方として活躍し、高季の弟である祐季は大光寺城を居城とした。しかし足利尊氏が反旗を翻した時、福島城の安東氏は南朝方に、藤崎城の安東氏は北朝方に、と別れて戦う事になる。結果、藤崎城と大光寺城には下国安東氏である教季が居城とすることになった。

その後、嘉吉3年(1443)、《応永年間(1394〜1428)〜永享年間(1429〜41)の頃という説もある》、南部氏の攻撃を受けて両城は落城し、下国安東氏は津軽半島を北へ逃れ、蝦夷へ渡った。
後に蝦夷から出羽国の檜山城に拠る事になるが、文明2年(1470)、檜山の安東政季は、安東氏発祥の地である藤崎城を欲し、同族にも関わらず藤崎城を攻めた。しかし城主である安東義景の頑強な抵抗に会い失敗に終わっている。

後に藤崎城は南部氏の支配下に置かれ、城代が置かれるなどして南部氏の津軽地方支配における重要な拠点となった。そして南部氏の有力一族である南部高信が石川城に入城すると、その支配は一層強固なものになった。
しかし元亀2年(1571)、石川城が大浦(津軽)為信によって落城すると、津軽地方は為信の支配化に置かれた。為信は藤崎城に義弟の六郎や甥の五郎らを配置して重要な拠点としたが、天正13年(1585)、六郎と五郎が事故死すると藤崎城を廃城とし、藤崎古城と呼んで城番が置かれた。
江戸時代には建造物は破却され、苗代や畑として使われたという。


 ■ 構成
城の規模は東西360m×南北800mの平城で、本丸・西ノ郭・東ノ郭(新館)の3つの郭から構成されている。
本丸は一ノ郭・二ノ郭からなる長方で、掘割で仕切られており、周囲には土塁がめぐらされていた。
西ノ郭は本丸の北西に位置し、現在は稲荷宮や法光寺が残る。東ノ郭は城の東南に位置し、藤崎城の中では比較的新しい。


 ■ 現況
現在は八幡宮境内や住宅地となっている。

■ 八幡宮入口
■ 八幡宮境内
かつて藤崎城の一部であったという。
■ 土塁跡
八幡宮北東側にある、現在藤崎城跡に残る唯一の遺構である。
■ 国道7号線バイパス
城の南西から北東を通っている。
■ 国道339号線
こちらは南東から北西へ抜けている。
■ 藤崎町市街地
こちらは八幡宮の北側。現在は住宅地となっているが、ここら一帯全域が藤崎城であった。
■ 平川
城の西側を北に流れている。
■ 地図