ふくしまじょう
福島城
福島城 内郭跡  訪問年月日  2005年8月21日
 別称  −
 所在地  青森県五所川原市相内
 創築者  安東貞季
 主要城主  十三氏・安東氏
 築城年  正和年間(1312〜17)
 廃城年  −
 様式  平城
 構成  内郭・外郭
 遺構  郭・堀・土塁・門跡
 設置・復原物  説明板・門
 文化財指定  −
 ■ 沿革
福島城は十三氏の居城である。十三氏は平泉藤原氏の末裔とされ、藤原氏3代・秀衡の弟である藤原秀栄が十三氏を名乗っている。この秀栄が文治年間(1185〜89)に築いた城を後に安東氏が拡張・修築したといわれる。

−十三湊の支配−
十三湊周辺はかつて十三氏の所領であったが、その一方鎌倉時代に藤崎城を居城としていた安東氏は津軽地方で最も勢力が大きく、幕府から蝦夷管領に任命されていた。

寛喜元年(1229)、安東貞季は十三秀直を萩野台合戦(弘前市津賀付近)において破り、十三湊に進出して正和年間(1312〜17)、福島城を築いた。
その孫の愛季(よしずえ)は居城を福島城に移し、その子である堯勢(たかなり)が拡張修築し、さらにその子である貞季が大規模に拡張した。

−津軽大乱と大津波伝説−
福島城が完成して間もない元応年間(1319〜21)、いわゆる「津軽大乱」が起きた。
当事者は安東五郎三郎季久と安東又太郎季長といわれるが諸説あり、はっきりしていない。いずれにせよ本家の福島城主と庶家の藤崎城主らによる管領職・領地・跡目争いが発端であると思われる。
この争乱に幕府は正中3年(1326)と嘉暦2年(1327)の二度にわたり兵を派遣し鎮圧に乗り出したが
手際の悪い収め方であった。

さらに運悪く、暦応3年(興国元・1340)、突如として十三湊を大津波が襲い、壮大を誇る福島城とその城下町が一瞬で壊滅し、応永5年(1398)には砂丘と化したという(しかし近年の発掘調査では大津波の痕跡は見つかっていない)。

−南部氏との抗争−
南北朝時代に入ると、安東氏は南朝方に属したが、同じ南朝方の三戸南部氏との仲は険悪であった。
応永18年(1411)、南部守行は陸奥守に任ぜられた。これを好機に守行は津軽統一を目指したが、その子・義政の代には当時の安東氏当主であった安東盛季と婚姻関係を結んだ。

しかし、永享12年(1440)に義政が没し、その弟である政盛が南部氏を継ぐと、嘉吉3年(1443)に政盛は盛季に対し見参のためと称して福島城に入り、奸計をもって一晩で福島城を奪取した。ちなみにこれは応永年間(1394〜1428)から永享年間(1429〜41)の頃という説もある。

福島城を追われた盛季は後方の唐川城に退き、さらに柴崎城を経て渡島(蝦夷地)に逃れた。
以後、安東氏は平安時代以来の父祖伝来の地である津軽には戻れなかった。その後福島城は住む人もいなく荒れるにまかせたままであったと言われ、廃城になったものと思われる。


 ■ 構成
旧市浦村相内の東南で十三湖北岸の台地に位置し、内郭は東西180m×南北170mで四方に虎口、南に大手口があり、四方を水堀で囲まれていた。
内郭の周りに外郭があり、外周は谷間を利用した堀と土塁で囲んでいる。


 ■ 現況
現在内郭は整備されているが、当時と違い入口は北側になっている。
また国道339号沿いに壮大な堀跡と土塁跡が見られ、それに沿って奥に進むと門跡・井戸跡が見られる。

■ 外堀跡
国道339号線を北に向かっていると一番初めに目に入るのがこの外堀跡である。
■ 外堀・土塁跡
2〜3m位の高さがある土塁とそれに沿って1km近く続くという堀跡である。
■ 土塁上から国道を見下ろす
登ってみました。
■ 土塁稜線
この様に奥まで続いている。
■ 外郭門跡
ずっと奥まで進むと途中で門跡にたどり着く。
この外郭門は昭和30年に東京大学が発掘調査をしているが、今回もまた発掘調査があったらしく遺跡説明会も行われたようである。
■ 外郭門跡の奥
土塁はさらに続いている。
■ 井戸跡
外郭門跡から十数m奥の土塁内側に井戸跡がある。
画像真中の穴がそれである。
■ 内郭北門跡
一旦国道に戻り、内郭跡に向かうと内閣北門跡に行き着く。
門が復原されている。
■ 内郭水堀
内郭はこのように2〜3m幅の堀で囲まれていた。
■ 内郭土塁跡
堀の内側には低めの土塁で囲まれている。
■ 内郭跡
東西180m×南北170mの広さである。
■ 内郭南西隅
少し段差があるように見える。
■ 復原図
図の左側にある方形の部分が内郭である。