いいづめじょう
飯詰城
飯詰城 主郭入口  訪問年月日  2003年8月15日 / 2009年4月11日
 別称  高楯城
 所在地  青森県五所川原市飯詰字福泉
 創築者  藤原景房
 主要城主  朝日氏
 築城年  康永3年(興国5・1344)
 廃城年  天正16年(1588)
 様式  平山城
 構成  主郭・東郭・西郭
 遺構  郭・土塁
 設置・復原物  標柱・石碑・説明板・史料館(?)
 文化財指定  −
 ■ 沿革
飯詰城は朝日氏の居城といわれる。
『本藩通観録』では城主を「飯詰村館主 朝日左衛門尉、一説に朝日佐藤とも」とし、
『新撰陸奥国誌』では「朝日左衛門と言伝えられども何処の人にや由来詳ならず」と触れられている。
『飯詰村史』では「後醍醐天皇の近臣である藤原藤房が津軽に入り、その子景房が康永3年(興国5・1344)に飯詰城を築き朝日氏を名乗り、北畠氏が浪岡城に入った後にはその配下として活動した」という資料を載せており、この説が一番広まっている。
いずれにせよ「朝日氏」なる者がこの城に住んでいたことは間違いない。

−反為信派 最後の拠点−
天正6年(1578)、に大浦為信は浪岡城を攻撃し、北畠顕村一族を追放した。その後次々と津軽地方の拠点が為信の手によって落ちていく中、朝日氏最後の城主である朝日佐衛門尉行安は10年間にわたって大浦氏に抵抗した。
しかしついに天正16年(1588)、為信の軍は城の水脈を断って飯詰城を包囲した。朝日勢は籠城し必死に抵抗したがあえなく落城し、朝日氏は滅亡した。
この飯詰城が落城した事により、大浦為信の津軽統一は完成した。

−落城伝説−
水が不足した城内では、わざと包囲している大浦勢から見える場所で馬を白米で洗い、遠目に水があるように見せかけたが為信に見破られたという伝説や、糖塚川に鎧を投じて逃れようとしたが力尽き、主従が自害して果てたという「鎧留」の名が残っている。
また、怨念が残っているのか、毎年落城の日が近づくと城の周囲に怪異な事が起きるという話もある。

落城の折、為信の攻撃を教導した人物として対馬右衛門太郎の名を挙げ、尻無方面(五所川原市)から攻め入ったことを記している。また、阿部孫三郎信友が案内したという別の記録もある。


 ■ 構成
城の中心部は糖塚川を北に配した急崖の上にあり、標高は西側の高所で56mである。
頂部には一段高い主郭と、空堀で区切られた東西の両郭が存在し、南北両側には階段状に帯郭が設けられている。


 ■ 現況
城跡全体は果樹園となっているが、西郭に史料館が建設されている。
主郭はちょっとした広場になっており、石碑等が設置されている。

■ 入口
城の麓にある妙龍寺脇の小道を登る。
■ 入口
画像真中にタヌキの兄弟がこっちを見てる・・・
■ 飯詰城説明板
道を登っていくとこの説明板が見える。
『飯詰村史』と同じ記述が見られるが、参考文献が有名な偽書論争を巻き起こした『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』に拠るものらしく、通説である「朝日氏が藤原藤房の子孫であり、大浦為信に抵抗して滅亡した」というのがどこまで本当か不安なものになる。
ちなみに『津軽諸城の研究』では「確実な記録は無いが樺沢団右衛門の居城という伝説が残っている」という。説明版には樺山団右衛門は朝日左衛門尉行安の弟としている。
■ 分れ道
説明板の所から道は二手に分れており、左に行くと西郭へ、
右は果樹園を通り抜けて主郭へ続いている。
■ 西郭
上記の分れ道を左に登った所に西郭が位置する。
西郭には謎の建造物が・・・
■ 謎の建造物
どうやらこれは昭和51年(1976)に建築された高楯城史料館「あすなろの家」という建物らしい。
中途半端に「天守」を意識した造りである。
ちなみに最近あまり使われている様子は見られなかった。
■ 西郭西端
妙龍寺側より入口が設けられている。
かつての虎口かもしれない。
■ 西郭空堀跡
西郭を東西に区切る空堀跡。
規模はそれ程でもなく、深さ数十cm程度か。
■ 西郭東側
北側に腰郭を配し、主郭へ続いている。
■ 北側の腰郭
段状に郭が設けられていたように見える。現在は畑になっている。
この画像左側には糖塚川が流れている。
■ 主郭への道
鳥居を潜って主郭へ至る。
■ 堀切
主郭と西郭を分断している。
■ 主郭
最高所に位置する主郭の奥には石碑と忠魂碑が建てられている。
■ 東郭
主郭東側に位置する。
■ 主郭南側
外周は一段低くなっている。
■ 主郭南側腰郭
現在は果樹園となっている。