いしかわじょう
石川城
石川城 遠望  訪問年月日  2005年7月30日
 別称  石川十三館・大仏ヶ鼻城
 所在地  青森県弘前市石川
 創築者  曾我道性
 主要城主  曾我氏・石川南部氏
 築城年  −
 廃城年  慶長16年(1611)
 様式  山城
 構成  13館
 遺構  郭・堀・土塁
 設置・復原物  説明板
 文化財指定  −
 ■ 沿革
−曾我道性の築城−
正慶2年(元弘3・1333)5月、鎌倉幕府は滅亡し、幕府の重臣であり、秋田城介を称していた安達高景とその僚友の名越時如が出羽国の湊(現在の秋田県秋田市)に逃れてきた。
だが在地の武将達はそれを好しとせず敵対したため、高景と時如は津軽の地頭で曾我氏宗家の当主である曾我道性を頼った。そこで道性は大光寺に館を築き、彼らを迎え入れた。

しかし曾我氏傍家の岩館曾我光高は朝廷の支援を受け、翌年の建武元年(元弘4・1334)に大光寺館を攻撃した。大光寺館の将兵達は持ちこたえられず石川城に逃れた。これが石川城の史料上における初見である。道性勢は石川城も支えきれず、その後は持寄館に立籠もった。その後、曾我氏は八戸南部氏に敗れて姿を消した。

−南部高信の登場−
天文2年(1533)、三戸南部氏きっての有力者である南部高信が津軽地方に入り、平賀・田舎・沖法の三郡(現在の南津軽郡全域)を支配下に置き、石川城の大仏に居城を置いて大仏ヶ鼻城と称した。
高信はその居城から石川高信と呼ばれ、その信任が厚かったが、一方、鼻和郡の大浦城を居城とする南部為信は大浦為信と呼ばれ、宗家南部氏からの独立を謀っていた。

−為信の謀略−
元亀2年(1571)春頃、大浦為信は石川高信に接近し、石川城に近い大浦氏の支城の堀越城の改修を願い出、高信はそれを許した。だがそれは為信の謀略であった。
為信は堀越城を修築すると見せかけて兵糧や武具を運び込み、大工や人夫に見せかけ兵を引き入れた。そして堀越城修築完了と祝宴を大浦城で行う旨を高信に伝え、高信の家臣である金沢円松斎・栃尾靭負・浪外記の三人を招待した。
こうしてすっかり高信を油断させた為信は三人を返した夜に兵を挙げ、石川城を急襲した。大仏ヶ鼻城の本丸にいた高信は必死に防戦したが敵わず、妻子共々自害して果てたという。
しかし、三戸南部氏方の史料においては、高信は天正9年(1581)に石川城で病死したとされ、双方の史料に食い違いがある。

−そして廃城へ−
落城後、為信は板垣兵部将兼を石川城に置いた。しかし慶長5年(1600)、為信が関ヶ原合戦においての留守中に板垣は多田玄蕃・尾崎喜蔵らと共に謀反を起こした。結果的に兵部は金小三郎信則に討たれ、玄蕃は爆死し、喜蔵は討ち死にした。
慶長16年(1611)、高岡城(弘前城)完成後は廃城となった。


 ■ 構成
石川城は石川十三館と呼ばれ、13の館によって成り立っていたという。
東南部の最高所が「大仏ヶ鼻館(石川館)」と呼ばれ、その西側の同じ高さに「次兵衛殿館」(岡館・猿楽館・月館に分かれている)が相対している。その南側には線路を隔てて「寺屋敷」「山城」が位置している。
次に北西に向かって「坊館」「寺館」「高田館(平山館)」「内館(八幡館)」「茂兵衛殿館」「孫兵衛殿館」と続き、ここで丘陵の尾根が切れ、さらに南側の別の丘陵上に「寺山館」が位置している。
石川館は本郭・二ノ郭・三ノ郭と腰郭からなっており、北側に大手門跡、西側に搦手門がある。


 ■ 現況
現在は大仏ヶ鼻館のみが公園化され、その他の館跡は殆ど果樹園となっている。また奥羽線開通工事により、中央部を破壊され、旧状を留めていない。

■ 石川館大手門跡
石川館の北門であり、大手門である。現在は大仏公園の北門となっている。
■ 三ノ郭跡
大手門跡入ってすぐ左手にある郭である。
■ 三ノ郭と二ノ郭間
大手門跡から左手に三ノ郭を見ながら奥に進むと段差があり、二ノ郭に着く。
■ 二ノ郭跡
二ノ郭跡は三ノ郭より若干狭くなっている。
■ 二ノ郭跡からの展望
平川が流れる。
■ 主郭跡
主郭跡は一番奥も最頂部に位置し、二ノ郭よりもさらに狭くなっている。
■ 東側土塁
東側はこのように堤防のような土塁に守られている。
■ 北東側断崖
高さ7〜8mはあろうか。
■ その他の郭か
石川館以外の12館は現在果樹園や宅地となっており、旧状を留めていないといわれる。
この場所は石川館北側の道路を挟んで向かい側にある郭跡らしき段差である。