川原館 石碑  訪問年月日  2006年8月20日 / 2009年5月4日
 別称  川原御所
 所在地  青森県青森市浪岡大字浪岡字浅井
 創築者  北畠盛親か
 主要城主  北畠氏
 築城年  −
 廃城年  永禄5年(1562)
 様式  平城
 構成  東館・西館
 遺構  堀
 設置・復原物  石碑
 文化財指定  −
 ■ 沿革
川原館は「川原御所」とも呼ばれ、浪岡城主・北畠氏の一族の居館である。
川原浪岡氏は、北畠顕家の弟である北畠顕信の子・守親を始祖とされる。しかし、守親の子である親能の時期に断絶している。
戦国時代に入ると、浪岡北畠氏の総領・北畠具永の命により、名跡を具永の庶子・具信に跡を継がせ、川原浪岡氏を再興させた。

−川原御所の乱−
永禄5年(1562)、具信とその子・顕重が浪岡城主・北畠具運を突如殺害する事件が起きた。
この報復として浪岡北畠氏側は、具運の弟・顕範が川原館を攻撃し、これを落とした。この戦いにより具信は討死したが、残党は水木館に籠り抵抗した。
結果的に水木館も落とされたため、川原北畠氏は滅亡したが、落延びた子孫は水木氏を名乗って大浦氏に仕えた。

この乱以後、家臣団に動揺が走り出奔者が相次ぎ、浪岡北畠氏の力は急速に衰え始め、後に大浦為信によって滅ぼされる遠因ともなった。


 ■ 構成
川原館は東館と西館の二つの館によって構成されていた。
東館は東西約500m×南北約200mの規模であり、周囲に水堀と土塁を廻らせていた。
西館は東館の西側に堀を隔てて位置していた。規模は東館とほぼ同じで東西約500m×南北約180mであった。


 ■ 現況
現在は石碑が残るのみであり、周囲は宅地化されて遺構はほとんど残っておらず、当時の状況を窺い知る事は困難である。
わずかに水路が往時の堀跡を推測させる。

■ 石碑
住宅地の一部に設置されている。
■ 城域
県道146号線が通っている。
■ 城域
宅地化によって遺構はほとんど残っていない。
■ 城域
石碑の北側。
■ 堀跡
僅かに水路が往時の堀跡を思わせる。
■ 浪岡川
城域の北側を流れている。





かわはらだて
川原館