■ 沿革
旧岩崎村森山崎の地に、異なる時代に森山飛騨守季定と小野茶右衛門という武将がそれぞれ在住していたために「森山館」と「茶右衛門館」の二つの名が存在する。
−森山氏の居館・森山館−
天文15年(1546)、それまで檜山安東氏に属していた森山飛騨守季定が安東氏に背いたため、居館であった森山館を安東尋季・蠣崎季広に攻められた。尋季は正面から、季広は搦手から攻攻撃し、進退に窮した季定は自刃して果て、森山館は落城したという。
−茶右衛門館として−
その後、時を経て津軽為信の時代、海賊方(海軍)に小野茶右衛門という剛勇を謳われた武将がいた。慶長9年(1604)、深浦以南が津軽領となった時、秋田方面に対する押さえとして茶右衛門が森山に配されている。この際に茶右衛門は森山館を居館とし、後に茶右衛門館と呼ばれるようになったと思われる。
やがて津軽藩主2代信枚の時代である慶長18年(1613)頃、茶右衛門に横暴な振舞いがあったとして、大間越奉行であり「鬼勘解由」と呼ばれた笹森勘解由が討伐に差向けられた。しかし館の防備は固く、そのため勘解由は持久戦に持込んで館を包囲した。
結果、水の手を断たれた森山館は落ち、茶右衛門も討たれたという。
−落城秘話−
この茶右衛門の征伐は津軽藩の跡目争いであったという説がある。
茶右衛門の娘である千鶴姫は五島久三という男と恋仲となった。しかし茶右衛門館が笹森勘解由に攻められた際に2人は心中し、その場所は「姫岩」と名付けられ、村人に語り継がれた。
後の時代、岩近くのトンネル開削時には多数のかんざしが発見されたという。
■ 構成
森山館は森山崎の丘陵に築かれた単郭である。
南側と北側は共に急崖の台地上にあり、周囲には深く切った堀切が存在する。丘陵東側には森山東館と呼ばれた主郭が存在している。東館は平時のものであり、丘陵の館は物見も兼ねて戦時のものであったという。
■ 現況
現在森山館は国道101号線とJR五能線の二つのトンネルが通っているが、急峻な台地は現存である。
最近まで落城時の焼米が出土していたという。
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■ 入口
南側に説明板が設置され、入口が整備されている。 |
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■ 堀切跡
大規模な堀切跡である。岩盤を掘削したものと思われる。 |
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■ 岩盤
各所でこの様に岩盤が露出している部分が多々見受けられる。 |
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■ 登道
入口付近では西側崖沿いを登っていたが、途中で東側崖沿いに移行する。 |
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■ 物見台先端
現在は木々で遮られているが眺望はかなり良い。 |
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■ 主郭土塁跡
物見から堀切を挟んだ後背側丘陵に主郭が位置している。 |
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